大内義長(おおうちよしなが)
名字と諱
大友晴英⇒大内義長
諱以外
塩乙丸 八郎 大内介
氏(本姓)
⇒多々良
姓
⇒朝臣
位階
従五位下
官職
左京大夫
本拠
山口
》の右の数字は数え年
《皇紀2192年 享禄5年/天文元年 後奈良天皇7年 西暦1532年》1
生まれけむ。
《皇紀2203年 天文12年 後奈良天皇18年 西暦1543年》12
5月7日、大内義隆の養嗣子大内晴持が没する。
大内晴持の死後、将軍義晴の仲介により大内義隆との間でその養子となる契約をする。
《皇紀2205年 天文14年 後奈良天皇20年 西暦1545年》14
大内義隆に長男として義尊が生まれる。
大内義隆は晴英との養子の契約はなかったことにして、義尊を嫡子とする。
《皇紀2210年 天文19年 後奈良天皇25年 西暦1550年》19
2月12日、父大友義鑑が没しけり。
2月、二階崩れの変により父義鑑が没する。
《皇紀2211年 天文20年 後奈良天皇26年 西暦1551年》20
兄義鎮(のちの宗麟)とともに、陶隆房(のちの晴賢)からの晴英の大内氏継承の申し出に同意する。
9月1日、陶隆房の反乱により大内義隆が自刃する。
9月2日、大内義尊が殺害される。
陶隆房が晴英に、大内氏を継承するとの前約の履行を要請する。
兄義鎮は、陶隆房らが君臣の義に背いて大内義隆を殺害したことから、晴英の山口行きを反対したが、晴英が「大内家相続の目的を達したなら、どのような後難が起っても苦しくない」と嘆願したので、義鎮は晴英の山口行きを許諾する。
この年、府内にいるフランシスコ=ザビエルに、山口へ赴いた後はキリシタンを保護することを約束する。
《皇紀2212年 天文21年 後奈良天皇27年 西暦1552年》21
2月11日、豊後の府内を発する。
3月1日、大内氏の先祖の吉例に倣って周防の多々良浜に上陸する。
3月2日、多々良浜に滞在する。
3月3日、山口に入り、大内氏を継ぐ。しかし、国務の実権は陶晴賢が握る。
6月9日、安芸の諸城主に毛利氏と協力して備後を平定させるため、その説得者として江良房栄を安芸へ派遣する。
8月28日、山口での大道寺の創建を許可し、領内でのキリスト教の伝道活動を公認する。これから大内氏が滅びる弘治3年までは大内領内でキリシタンの隆盛期となる。
10月、将軍義藤(のちの義輝)から偏諱を受けて義長と改名する。
《皇紀2213年 天文22年 後奈良天皇28年 西暦1553年》22
閏1月27日、従五位下左京大夫に叙任される。
4月5日、刺賀長信に、以前に山吹城で先証が消失したのを受けて、改めて石見の刺賀郷500貫・重富村40貫を安堵する。このことにより当時、大内氏が石見の大森銀山を支配して刺賀長信に山吹城を守らせていたことが分かる。
4月6日、筥崎神人奥堂左衛門大夫に、御油役諸公事以下を免除する。
{4月上旬}、尼子晴久が出雲の横田に出陣し、その先鋒は備後の甲山に到着する。
5月上旬、毛利元就を援助するため、椙杜隆康を備後へ出陣させる。
7月、毛利元就を援助するため、内藤興盛を備後へ出陣させる。
10月、吉見正頼が陶晴賢に対して挙兵する。
12月、毛利元就ら安芸の諸城主の働きにより、備後が大内氏の支配下に入る。
12月、安芸の諸城主に書を与えて備後平定をねぎらう。
《皇紀2214年 天文23年 後奈良天皇29年 西暦1554年》23
1月、安芸・石見の諸城主に吉見正頼討伐を告げ、出軍を要請する。
3月1日、吉見正頼攻めのため陶晴賢に奉じられて山口を出陣する(『吉田物語』)。
3月1日、義長は長門の渡川にとどまり、陶晴賢は石見へ向かう。
陶晴賢が吉見正頼を三本松城(一本松城,津和野城)に攻めるが苦戦する。
5月12日、毛利元就が陶晴賢を討つために挙兵し、安芸の諸城を攻略し、厳島を占領する。
5月、毛利元就が策略を用いて義長と陶晴賢の間の疎隔を図る。
5月28日、陶晴賢に、両者の間にいささかも変わりがないことを誓う。
8月下旬、陶晴賢と吉見正頼の和睦が成る。
9月、陶晴賢に奉じられて山口に帰る。
《皇紀2215年 天文24年 後奈良天皇30年 西暦1555年》24
陶晴賢が周防・長門・豊前・筑前の大軍を率いて山口を出
陣する。義長は出陣せず、山口にとどまる。
このころ、吉見正頼への抑えとして長門の渡川に出陣す
る。
4月10日、足利義維・義親(のちの義栄)らが周防に避難して来る。
10月1日、陶晴賢が厳島で毛利元就に敗れて戦死する。
《皇紀2215年 天文24年/弘治元年 後奈良天皇30年 西暦1555年》24
冬、野上房忠を渡川の陣にとどめて山口に戻る。
《皇紀2216年 弘治2年 後奈良天皇31年 西暦1556年》25
春、杉重輔が毛利元就に内通していることが発覚する。
3月2日、内藤隆世が杉重輔の後川原の邸を襲い、隆世の兵が隣屋に放火し、風が強かったので山口市街が皆焼ける。
3月2日、火災を避けて、今八幡宮に逃れる。
3月2日、杉重輔兄弟が邸の囲みを破り、義長を追って今八幡宮に来る。
3月2日、杉重輔が、内藤隆世による重輔への攻撃は義長が命じたからだと誤解して、拝殿に上って義長に迫り、斬りかかる。
3月2日、飯田興秀・仁保隆慰が義長と重輔の間に入り、重輔を諭して義長を宝殿に移す。
3月2日、内藤隆世の陣営である西方寺に飯田興秀・仁保隆慰を送って、隆世を諭して杉重輔との和睦を勧めるが、隆世は承知せず。
3月2日、義長の命で杉重輔と内藤隆世が人質を交換する。
3月2日、杉重輔が宝寿院に退く。
3月2日、火災で居館が焼けたので、広徳院に入り、以来これを仮館とする(後日、観音寺に移る)。
3月3日、西方寺に飯田興秀らを送って、内藤隆世に数回にわたって杉重輔と和睦するよう諭すが、隆世は承知せず。
3月4日、内藤隆世が宝寿院を襲って杉重輔主従を殺害す
る。
3月11日、大内方の山代の兵が毛利氏に降り、山代の地が毛利氏のものとなる。
3月15日、大内方の兵が玖珂で毛利方と戦う。
[3月]、吉見正頼が義長に対して挙兵する。
[3月]、山代一揆が毛利氏に屈服し、周防の玖珂郡全土が毛利氏の支配下に入る。
[春]、須子下総守・三輪兵部丞らを須々万沼城の救援に派遣する。
4月ころ、兄の大友義鎮(のちの宗麟)が毛利元就の要求を受け入れ、毛利氏による周防・長門への進撃を了解する。
4月ころ、豊前・筑前国境方面の諸氏および一揆が蜂起する。
4月13日、内藤隆世など大内氏の重臣が連名で筑前の佐田隆居に、筑前での一揆鎮圧のために周防への出陣をひかえるよう命じる。
5月上旬ごろ、大内方の山吹城将刺賀長信らが吉川元春に降り、石見の大森銀山が毛利氏の支配下に入る。
7月、秋月文種が毛利元就に通じて大内氏からの独立を企てる。
7月3日、佐田隆居に、麻生鑑益の指揮に従って秋月文種を退治するよう命じる。
《皇紀2217年 弘治3年 後奈良天皇32年 西暦1557年》26
1月〜(前年〜とも)、高嶺城の築城を進める。
2月〜、毛利元就の防長経略が本格化する。
2月中旬、内藤隆世とともにまだ完成していない高嶺城に籠る。
{春}、朝倉弘房・鷲頭隆政を防府松ヶ崎に陣取らせる。
3月8日、富田若山城に籠る陶氏の遺臣が毛利氏に降伏し、開城する。
3月、毛利元就に通じた右田重政(隆量から改名)が山口東郊の氷上を占領する。
このころ、吉見正頼が大内軍を破り、山口宮野口に達す
る。
3月10日〜11日の間、戦況の悪化に加えて、高嶺城は未完成で兵糧の蓄えも不十分であったことから同城を撤退す
る。
3月、小郡に入る。
3月、長門に入り、山中・二俣川・厚東・舟木・厚狭・吉田を経て長府に入る。
3月12日、内藤隆世とともに且山城(勝山城)に籠る。
3月12日、毛利元就が防府に進軍し、松崎天満宮の大専坊を本陣とする。
3月12日、福原貞俊ら毛利軍が山口を占領する。
3月中旬、福原貞俊ら毛利軍が且山城を囲む。
3月28日、福原貞俊ら毛利軍が且山城の三の丸を占領する。
福原貞俊ら毛利軍が且山城の二の丸を占領し、本丸を残すのみとなる。
4月2日、福原貞俊が義長に、内藤隆世の死により義長を助命する旨を伝える。
4月2日、最後の一戦を交えて潔く且山城で自殺することを主張するが、家臣らに阻まれて果たせず。
4月2日、且山城から脱出し、長福院(長福寺)に入る。
4月2日、且山城で内藤隆世が自刃する。
4月3日、長福院(長福寺)を福原貞俊らに囲まれて自殺を迫られ、杉民部大輔の介錯により自刃する。法名は春輝院春光龍甫(前亜相晴渓竜甫大禅定門とも)。墓所は長福院(長福寺,現在の功山寺)。
4月3日、自害しけり。辞世の句は「誘ふとて 何か恨みん 時きては 嵐のほかに 花もこそ散れ」。
《皇紀2233年 元亀4年 正親町天皇17年 西暦1573年》
3月11日、毛利輝元が山口町奉行の国司就信・黒川著保に、
義長の17回忌法会のため、祭資を長福院に寄せるよう命じる。
