大内義隆(おおうちよしたか)
》の右の数字は数え年
《皇紀2167年 永正4年 後柏原天皇8年 西暦1507年》1
11月15日、大内氏館にて生まれけり。
《皇紀2177年 永正14年 後柏原天皇18年 西暦1517年》11
2月13日、氷上山上宮に参詣する。
《皇紀2178年 永正15年 後柏原天皇19年 西暦1518年》12
12月2日、周防の玉祖神社に、太刀1腰・馬1疋を寄進する。
《皇紀2179年 永正16年 後柏原天皇20年 西暦1519年》13
8月29日、長門一宮の住吉神社に、太刀1腰・馬1疋を寄進する。
《皇紀2180年 永正17年 後柏原天皇21年 西暦1520年》14
6月29日、父義興が高嶺神社(移築した祇園社)の遷宮の儀を行う。義隆はこれに参加する。
15
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《皇紀2184年 大永4年 後柏原天皇25年 西暦1524年》18
父義興とともに遠征のため、安芸へ向かう(義隆の初陣)。
6月、父義興とともに厳島に進む。
6月〜、父義興の命で武田光和を銀山城(金山城)に囲む。
7月10日、銀山城の包囲中に、尼子氏と安芸・備後の国人の連合軍に襲われるが、これを破る。
8月5日、毛利元就が率いる安芸・備後の国人の連合軍に陣を奇襲され、敗れて退却し、初陣を勝利で飾れず。
廿日市に退く。
父義興に合流する。
《皇紀2185年 大永5年 後柏原天皇26年 西暦1525年》19
2月10日、父義興とともに厳島の野坂房顕の邸で陶興房の饗応を受ける。
20
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《皇紀2188年 享禄元年 後奈良天皇3年 西暦1528年》22
12月20日、父義興が没しけり。義隆家督を継ぎけり。
《皇紀2189年 享禄2年 後奈良天皇4年 西暦1529年》23
2月10日、『大内家壁書』で、家人の奢侈を禁止する。
4月、京へ書状を送り、三条西実隆に父義興の位牌の書様について質問する。
5月3日、筥崎神人奥堂左衛門大夫に、御油役諸公事以下を免除する。
12月23日、従五位上に叙されけり。
この年、課税に関する条々を発する。
《皇紀2190年 享禄3年 後奈良天皇5年 西暦1530年》24
1月、幕府に遣明船派遣の承認を要請する。
2月6日、三条西実隆が義隆に、懐紙の書様について書き遣わす。
3月9日、幕府が義隆に遣明船派遣を許可する。
4月19日、大永6年に焼失した防府松崎天満宮の再建を開始する。
[4月〜]、杉興運に、勢力回復を図る少弐資元を攻めさせる。
8月、杉興運が肥前の田伝で少弐勢に敗れる。
このころ、幕府に少弐追討の幕命を請う。
このころ、幕府は少弐氏の肥前守護を認めていたので少弐追討を許さず。
このころ、名分を重んじて少弐討伐を見送る。
10月3日、防府松崎天満宮が落成する。
10月9日、左京大夫に任ぜられけり。
10月14日、防府松崎天満宮の遷宮式を執行する。
《皇紀2191年 享禄4年 後奈良天皇6年 西暦1531年》25
2月下旬、尼子方の小笠原長隆が、大内氏の支配する石見の大森銀山を奪取する。
7月、七夕の連歌会を興行する。
10月15日、少弐資元が杉興運を筑前の岩屋城に攻める。
この年、周防の国衙に徳政令を発する。
《皇紀2192年 享禄5年 後奈良天皇7年 西暦1532年》26
6月28日、防府の松崎天満宮が朝廷から社殿再興の綸旨を受領したことについて、礼物(書籍・緞子)を朝廷に献上する。
《皇紀2192年 享禄5年/天文元年 後奈良天皇7年 西暦1532年》26
7月、小槻伊治を山口に招いて居住させる。
《皇紀2192年 天文元年 後奈良天皇7年 西暦1532年》26
9月、大友勢が筑前の西郷に侵入する。
10月2日、周防国衙領から陣夫を徴する。
10月、長府の修禅寺に本陣を構える。
10月29日、正五位下周防介に叙任される。
[10月]、多々良浜で大内軍が大友軍を破り、大友軍が立花城を去る(『歴代鎮西要略』)。
11月、豊前国宇佐郡の大内方に、豊前の妙見岳城に敵(大友勢)が襲来したならば、すぐに出陣して戦功に励むよう命じる。
11月15日、再び陶興房に大軍を託して赤間関から九州に渡らせる。
この年、興隆寺に梵鐘を寄進する。
《皇紀2193年 天文2年 後奈良天皇8年 西暦1533年》27
8月10日、筑前守に任じられる。
この年、筑紫惟門が大内氏に降る。
この年、尼子氏の支配する石見の大森銀山を奪回する。
この年〜、吉田興種・飯田興秀に大森銀山を守らせ、毎年銀100枚(4貫300匁)を納めさせる。
《皇紀2194年 天文3年 後奈良天皇9年 西暦1534年》28
2月16日以後4月上旬以前、正五位上に叙される。
2月27日、「山河百韻」の連歌会を興行する。
[春]、弧窓西堂を朝鮮への遣使として送る(『五経正義』
(『五経大全』)を求める。遣使は朝鮮からこれを授かったが、帰途行方不明)。
4月6日、筥崎神人に、御油役諸公事以下を免除する。
4月30日、従四位下に叙される。
5月18日、大内軍が薄野浦で大友軍と戦う。
[夏]、後奈良天皇が義隆に女房奉書を下して即位費用を献上するよう求める。
このころ、後奈良天皇の即位費用の献上を約した請文を送る。
7月、陶興房が三津山(満山)で佐嘉城の龍造寺勢による夜襲を受けて防げず、園部に退く。
10月、大内の諸勢が肥前の勢福寺城を囲み、少弐冬尚は力尽きて蓮池城に逃れる。
10月30日、少弐資元の隠居と少弐冬尚の東肥前半国安堵の条件で少弐氏と和睦する。
11月15日、上京した義隆の使者が吉田兼永に神道伝授を依頼する。
11月20日、父義興の牌を高野山成慶院に立てる。
{冬}、長府の本陣を引き揚げて山口に帰る。
冬、大友氏に対して和睦を望み、幕府に働きかける。
12月14日、将軍義晴が大友義鑑に大内氏との和睦を勧め
る。
[12月(翌年1月とも)]、後奈良天皇の即位大礼費2140貫(2千貫(20万疋)とも)を献上する。
この年、吉田兼永を通して山科言継に『中臣祓』の書写を求める。
この年、義隆の推挙により任官できたことを感謝して、毛利元就が義隆に太刀1腰・馬1疋・青銅千疋を贈る。
この年、尼子経久が大内氏に密かに使者を送り、塩冶興久を返すよう山内直通に働きかけてほしいと申し入れる。
この年、大内氏が毛利元就に、尼子経久からの申し入れについて相談する。
この年、毛利元就が大内氏に、尼子経久からの申し入れを受け入れるようにと返答する。
銭2千貫を朝廷に寄進しけり。(後奈良天皇の即位礼のため)
《皇紀2195年 天文4年 後奈良天皇10年 西暦1535年》29
1月、大友義鑑と和睦する。
6月、干ばつのため、法印円政寺貴快に命じて請雨法の修法を行わせる。
9月3日、禁裏の日華門修理の費用として1万疋(100貫)を献上する。
10月7日、太宰府天満宮の月次連歌興行の負担者を定める。これによると義隆の担当は8月。
12月22日、大宰大弐に任じられるよう朝廷に申請する。
12月27日、後奈良天皇が義隆を大宰大弐に任じる女房奉書を発給する。
12月28日、後奈良天皇が、前日に出した女房奉書を取り戻し、義隆の大宰大弐任官を取り消す。
大宰大弐への任命を申請しけり。
天皇により一旦許可されけり。
許可が1日で取り消されけり。
《皇紀2196年 天文5年 後奈良天皇11年 西暦1536年》30
2月26日、後奈良天皇の即位式が行われる。
5月16日、即位式の費用の大半が義隆の献金で賄われたので、その功により大宰大弐に任じられる。同時に、昇殿を許される。これ以後、こと絶えて久しかった「大府宣」を復活させる。
[5月]、明春を期して遣明船出航とし、幕府に対し、島津勝久に硫黄を納入させること、松浦党に遣明船の警護を命じることを請う。
6月、後奈良天皇が勅使として広橋兼秀を山口へ下向させ
て、義隆の即位料献上を賞し、義隆に剣を下賜する。
9月4日、陶興房の攻撃により少弐資元が自刃する。(肥前の平定)
閏10月16日、尼子方の平賀興貞と争っている大内方の平賀弘保に、骨肉の争いをやめて静謐にするよう説く。
冬、平賀弘保・興貞の争いは収まらず。
11月、杉長相・弘中興勝らを平賀興貞討伐に派遣する。
[11月]、龍作藤が義隆に『宇佐宮勅使記』を贈る。
12月28日、左兵衛権佐に任じられる。
[12月]、本願寺の証如に、遣明船で明へ贈る進貢物として瑪瑙を求める。
大宰大弐に任ぜられけり。
《皇紀2197年 天文6年 後奈良天皇12年 西暦1537年》31
1月6日、従四位上に叙される。
[春]、遣明船のことは全て幕府から委任されていたことにより、その正使に湖心碩鼎を、副使に策彦周良を任命す
る。
6月20日、策彦に周防への下向を促す。
[6月]、左史生時久が義隆に両大神宮御遷宮内殿御餝并神主御装束色目之事(神宝御装束并内殿御餝色目大概)を注進する。
8月16日、尼子詮久(のちの晴久)が、大内氏の支配する石見の大森銀山を奪回する。
[8月]、厳島の大願寺の僧である道本が、大蔵経(一切経)
を朝鮮に求めるため、義隆に朝鮮国王への上奏文と勘合を請う。
10月上旬、万里小路惟房・持明院基規らの公家や冷泉隆豊ら側近を引き連れ、筑前を訪れる。
10月10日、公家や側近などとともに筥崎宮宝前で法楽和歌会を行う。
12月21日以前、自らが上洛する意向を幕府に伝える。
12月21日、幕府が周布武兼・平賀弘保・毛利元就らに、大内義隆の上洛に協力するよう命じる。
この年、松尾禅師を朝鮮への遣使として送る。
この年、三条西実隆が義隆に、有職故実に関する義隆からの質問に答える(『多々良問答』、質問数は300以上)。
《皇紀2198年 天文7年 後奈良天皇13年 西暦1538年》32
1月16日、築山館で松囃子を興行する。
2月7日、氷上山興隆寺に赴く。
[2月]、尊海を朝鮮への遣使として送る(大蔵経(一切経)を求めるが、当時、朝鮮では仏教は盛んでなく、入手でき
ず)。
3月11日、築山館で能を興行する。
3月20日、妙見社で能を興行する。
[3月]、大内・大友両氏の家臣が筑前の秋月で和睦へ向けて交渉する。
[春]、湖心碩鼎・策彦周良を遣明使節として送る(大内氏が配船を独占する。好風を得ず、渡海できず、翌年3月に再び渡航する)。
4月12日〜、宇野談義所で勧進能を6日間興行する。
5月18日、築山館で犬追物を興行する。
[5月]、筑前の所領のうち数ヵ所を返還し、大友義鑑と和睦する。
6月8日、周防介に再任される。
[6月]、兵部権大輔に任じられる。
10月、正倪首座を朝鮮への遣使として送る(漏刻器の製法書・朱子新註の五経を求める。後年、遣使は漏刻器一具と詩経・書経などを得て帰国する。
この年、大内軍・山名理興が山名氏政を村尾城(神辺城)に攻め、城は落ちて氏政は自殺する。
大友義鑑と和睦しけり。(将軍義晴の仲介による)
《皇紀2199年 天文8年 後奈良天皇14年 西暦1539年》33
1月5日、正四位下に叙される。
3月、『聚分韻略』(『三韻一覧』・『三重韻』)を、自らの名で跋文を加えて刊行する。
5月下旬、兵を送り、尼子氏の支配する石見の大森銀山を奪回する。
8月上旬、洪水のため、性徳院日誓に命じて止雨法の修法を行わせる。
[8月]、勘合船が明より戻る。これ以来、明の茶飯の饗や言語をまねて遊宴にふける。
9月、毛利元就が策雲玄竜を通じて義隆に、小笠原長隆からの計策状3通を提出し、大内氏に対して依然として他意のないことを示す。
9月13日、毛利元就に、全く元就に対して疑心がない旨を誓う。
9月28日、毛利元就が内藤隆時を通じて義隆に、依然として義隆からの信頼が厚いことに感謝し、今後ますます大内氏のために忠節を励むことを誓う。
冬、椙社・宇野・杉らに軍勢をつけて安芸に派遣する。
12月下旬〜、広島湾頭で大内方水軍と武田方水軍が戦う。
この年〜、内田正重を大森銀山の奉行とし、銀山から毎年銀500枚(21貫500匁)を納めさせる。
《皇紀2200年 天文9年 後奈良天皇15年 西暦1540年》34
1月9日、防府に出陣する。
3月24日、伊予介に任じられる。
このころ、瀬戸内海制圧のため、小原隆言を伊予に出陣させる。
{8月7日}、厳島神社に太刀・馬を寄進する。
8月、都濃郡野上村に陣を移す。
8月、正雲寺に陣を移す。
8月、玖珂郡本郷に陣を移す。
9月4日〜、尼子詮久の進出により毛利元就が吉田郡山城に籠城する。
9月18日、尼子方の小笠原長隆が大森銀山を奪回する。
[9月]、本郷から岩国横山に陣を移す。
10月上旬、郡山城に籠る毛利元就を救援するため、陶隆
房・内藤興盛らを安芸へ向けて出陣させる。
10月17日、厳島神社に御供を献納する。
11月28日、厳島神社外宮の造り替え後の遷宮式に際して太刀1腰料足12貫文を寄進する(『房顕記』、ただし『房顕
日々記』では御太刀助宗と御神楽銭2貫400文)。
安芸に出兵。総大将として陶隆房を派遣しけり。(目的は毛利元就の救援)
《皇紀2201年 天文10年 後奈良天皇16年 西暦1541年》35
1月12日、友田興藤が大内氏と絶縁し、村上水軍の援助を受けて厳島を占領する。
1月13日、郡山城周辺で陶隆房ら大内軍・毛利元就らが尼子方を攻撃し、尼子方は総崩れとなる。勝敗は決せず。
1月13日、尼子詮久が出雲へ向けて退却する。
このころ、毛利元就が義隆に、「尼子陣切崩頸注文」を送
る。
1月15日、厳島に派遣した黒川隆尚が、友田方を破り、厳島を奪回する。
1月18日、野坂房顕に面会し、房顕から祐宗の太刀(昔、父義興が房顕に与えた)を献じられる。房顕に無事を祝して鎌倉の刀などを与える。
[1月]、出雲侵攻に関する軍議で陶隆房が即時出動を主張し、相良武任は慎重論を唱える。折衷論として漸進的出雲出兵に決する。
2月1日、厳島神社に神供を献納する。
2月2日、厳島の両社に剣・馬を献納する。
2月10日、周防の御師の徳寿内侍が2、3度の合戦の際に在島しなかったので、野坂房顕を周防の御師とし、15石の
地・段銭32貫を与える。
2月23日、野坂房顕が義隆に、神事田社家知行段銭などのことを嘆願する。義隆がこれを許可してさらにこれ以後は毎月社頭に太刀2腰・馬2疋を寄進することとする。
3月4日、義隆の命で毛利元就が佐東銀山城(金山城)を攻めるが、落とせず。
3月18日、岩国から安芸の門山に移る。
3月19日、藤懸七尾に移陣するため、内藤隆時・弘中隆兼らを派遣して地形を調べさせる。隆時らは戻って来る際に桜尾城の兵の追撃を受け、戦死者が出る。
3月23日、七尾に移り、桜尾城を囲む。
4月5日、桜尾城が自落し、友田興藤が切腹する。
4月8日、友田広就が五日市城で切腹し、城主宍戸弥七郎が広就の首を弘中隆兼に送る。
4月9日、七尾で友田広就の首実検を行い、桜尾城で勝鬨式を行う。
4月17日、厳島に渡る。
4月18日、厳島神社に参詣して経会舞楽を行わせ、両社に太刀2腰・馬12疋・櫃前14貫400文、弥山に5貫、滝宮に10貫を寄進する。
4月19日、神事祭礼目録などを見る。
4月19日、七尾に戻る。
5月5日、厳島での端午の神事の料として50貫50俵を与え
る。
5月7日、七尾から厳島に渡り、外宮に参詣し、御供・太刀2腰・馬2疋を献納して、帰陣する。
5月13日、毛利元就・天野興定・宍戸元源らが武田氏譜代衆の籠る佐東銀山城(金山城)を攻め落とす。
5月18日、毛利元就が陶隆房に贈り、陶隆房が義隆に献上した武田氏の什宝新羅三郎義光の楯無の鎧を厳島神社に寄進する。
5月24日、七尾を出て佐東銀山城に入る。
5月24日〜、銀山城で戦後の経営にあたる。
6月、山里4郷を厳島神社に寄進し、廿日市東西の地領銭35貫を御供や社家供僧の堪忍分として与える。
6月18日、伊予の上中島の警固として小原隆言・白井房胤を派遣する。
6,7月、小原隆言ら大内水軍が河野水軍と戦う。
8月19日、銀山城で明から帰国した策彦周良と対面し、復命を受ける。
8月22日、策彦の宿所を訪ねて朝方まで宴会を続ける。
8月24日、出頭してきた保寿寺の住持・策彦らと徹夜で飲む。
8月25日、安芸の西条へ出陣する。
9月11日、帰陣する。
9月12日、策彦・保寿寺の住持らとともに深夜まで酒を飲む。
9月13日、保寿寺の住持を訪ねて、茶会を開き、後に茶会は酒宴へと変わる。
9月14日、策彦と対面し、古い勘合符の点検をさせる。点検が終わり帰ろうとする策彦を引き止め、酒宴を開く。
9月16日、策彦が義隆に山口に下る暇乞いをする。策彦に再度の遣明使を命じる。
9月17日、策彦を招待して松茸汁を振舞い、その後、酒宴を明け方まで続ける。前坂まで策彦を送り、坂の途中で盃を手にとって小歌を歌う。
11月3日、狩野大炊助に、次回の遣明船で明へ送る品として屏風3双・扇子100本を注文する。
11月15日、佐東郡久村城主の久村才法師を誅伐する。
[11月]、幕府に、細川方の堺の遣明船を延引させるよう申し入れる。
12月20日、毛利元就に、元就の三男徳寿丸(のちの小早川隆景)が竹原小早川家を継ぐことについて遠慮は無用でその実現の知らせを待つと伝える。
12月27日、従三位に叙される。
この年、正法寺の僧を上洛させ、郡山籠城戦での毛利元就の戦功を幕府に報告する。
この年、山口に帰る。
《皇紀2202年 天文11年 後奈良天皇17年 西暦1542年》36
1月11日、大軍を率いて山口を進発する(『吉田物語』,
『安西軍策』,『陰徳記』)。
1月19日、厳島神社に太刀1腰・馬1疋を奉納して戦勝を祈願する。
[1月]、細川晴元が六角定頼に、堺の遣明船は大内氏の申請により延引の運びとなり、面目を失ったと伝える。
春、安芸の国府に着く。
春、国府で毛利元就ら安芸・備後の兵を合わせる。
{2月}、遣明船帰朝を幕府に復命し、明からの回賜品を納める。
春、大内軍が新庄を経て石見に入る。
3月上旬、大内軍が石見の出羽二ツ山に着陣する。
3月、出羽二ツ山で益田藤兼・福屋隆兼・佐波隆秀・出羽祐盛・小笠原長雄・本城常光・吉川経安ら石見の諸将が大内軍に加わる。
閏3月15日、勧修寺尹豊が義隆に、歌道(和歌・連歌)の再興のため、上洛するよう要請する。
4月2日、石見の一宮である物部神社に太刀1腰・馬1疋を奉納して戦勝を祈る。
4月11日、中島の警固兵からの援軍要請により小原隆言・村上掃部介らを伊予へ派遣する。
{4月}、大内軍が江ノ川の都賀の渡しで、設営された船橋を渡って出雲に入る。
4月21日、大内軍が高表で尼子軍と戦う。
4月22日、安芸の三入の陣で吉田兼右から『奉幣次第』・『神供咒文』など20種類の神道関係書を授かる。
4月26日、筥崎宮と厳島神社にそれぞれ太刀1腰・馬1疋を寄進し、戦勝を祈る。
このころ、京都六条の妙見社に敷地4町を寄進して戦勝を祈る。
6月7日〜、大内軍の熊谷直続らが、抜け駆けして赤穴光清を瀬戸山城(赤穴城)に攻めるが敗死する。
6月28日、三入から河本に陣を移す。
7月3日、毛利元就に、元就の三男徳寿丸(のちの小早川隆景)が竹原小早川家を継ぐことについて竹原小早川家の家人たちも強く懇望していることだとし、遠慮せず、承知するよう求める(翌年以降の7月3日との説もある)。
7月27日、大内軍が瀬戸山城(赤穴城)を総攻撃する。赤穴光清の激しい抵抗により大半の軍勢は退却するが、陶隆
房・平賀隆宗・吉川興経はなおも戦闘を続ける。結局、赤穴光清は戦死する。
7月27日、赤穴久清が瀬戸山城(赤穴城)を明け渡し、大内軍に降伏する。これにより出雲の国人の中に大内方となる者が出てくる。
7月29日、本陣を出雲の由木に移す。
8月1日、厳島神社に太刀1腰・馬1疋を奉納して戦勝を祈願する。
8月21日、日御碕神社に剣・馬を奉納して国土の安泰と万民の快楽を祈願する。
8月21日、厳島神社に太刀1腰・馬1疋を奉納して戦勝を祈る。
このころ、伯耆の南条宗勝・行松入道らが義隆の由木の陣に馳せ参じて降る。
9月3日、冷泉隆豊が鯛浦で尼子方と戦う。
9月5日、冷泉隆豊が大根島で尼子方と戦う。
9月19日、吉田兼右が義隆に、神代弓矢起以下を記した
『諸事元起』・『心御柱記』を注進する。
10月中旬、三刀屋ヶ峰に移る。
10月13日、鰐淵寺に出雲恒松保などの旧領を安堵する。
11月上旬、高津馬場に移る。
11月、馬潟の正久寺に移る。
12月、本願寺の証如に、次回の遣明船で明へ送る品として瑪瑙を所望する。
[冬]、大内勢はそれぞれ宍道湖東南岸地域に分かれて陣営を張って越冬する。
《皇紀2203年 天文12年 後奈良天皇18年 西暦1543年》37
1月1日、正久寺で年を越す。
1月19日、厳島神社に太刀1腰・馬1疋を寄進して戦勝を祈る。
1月20日、正久寺から宍道の畦地山に移る。
1月20日、畦地山で軍議を開き、毛利元就が主張する持久策を退けて、田子兵庫頭や陶隆房の急戦論を採る。
2月12日、月山富田城に近い経羅木山(京羅木山)に陣を移す。
2月13日、厳島神社に雄剣1腰を寄進して戦勝を祈る。
{2月}、吉田兼右から御鈴・御矛・御弓などを主とした神社祭祀の故実についての教えを受ける。
2月19日、吉田兼右から『神馬大事三ヵ条』を伝授される。
3月中旬〜4月、富田城麓で大内対尼子の局地戦が展開されるが、戦局は概ね不利であった。
3月24日、吉田兼右に奉幣に関する「不審条々」を問う。
3月27日、揖屋神社に太刀1腰・馬1疋を寄進して戦勝を祈る。
4月6日、日御碕神社に出雲大野荘以下数ヵ所を寄進して戦勝を祈る。
4月24日、京都六条八幡社に妙見社修造料として敷地を寄進し、宝祚延長・国家安全を祈願する。
4月晦日、三沢為清・三刀屋久扶・本城常光・吉川興経・山内隆通らが義隆に背き、尼子氏に迎えられて富田城に入る。
5月1日、陶・杉・内藤ら重臣を集めて善後策を協議し、尼子方に寝返った諸将の一族家人がそれぞれその城に拠って大内軍の糧道を断つことを憂慮して、5月7日の全軍撤退を決定する。
5月7日、晴持とともに経羅木山(京羅木山)の陣から撤退する。
5月7日、揖屋浦で晴持が溺死する。
5月22日、毛利元就に、その子隆元とともに無事に帰国したことを賀する。
5月25日、山口に帰還する。出雲遠征の失敗の後、自ら出陣して遠征することはなくなる。
{夏}、安芸の沼田金山に兵を派遣し、安芸の諸城主に敵兵に対する防御を命じる。
6月5日、出雲遠征の際に紛失した『神供咒文』や『神馬大事三ヵ条』を吉田兼右から再び伝授される。
6月ころ、安芸の経営のため、安芸国役人として弘中隆兼を西条に派遣する。以後、隆兼が備後南部(外郡)の、毛利元就が備後北部(内郡)の経略を担当する。
7月13日、『亀卜次第并祭文』を入手する。
8月、吉田兼右に依頼して、妙見社で7日間の祈祷をさせ
る。
8月28日、吉田兼右から『御表大麻二秡』を伝授される。
11月〜、冷泉隆豊を伊予に派遣し、反大内勢力を討たせ
る。
この年以後天文14年以前、将軍義晴を介して大友晴英(のちの大内義長)と養子の契約をする。
5月7日、養嗣子晴持が溺死しけり。
《皇紀2204年 天文13年 後奈良天皇19年 西暦1544年》38
1月5日、侍従に任じられる。
3月上旬、吉田兼右が義隆に神道の行事を授ける。
3月下旬、玉堂宗条が義隆の寿像に賛を加え、義隆の熱心な仏道修行をたたえる。
このころ、吉田兼右の多賀社での神道講説に出席する。
このころ、義隆の所望で吉田兼右が『六月秡次第』を作成する。
8月6日、吉田兼右から『印相大事』(『諸事印相事』)を伝授される。
このころ、吉田兼右が『築山社祭礼次第』を作成する。
10月、義隆の依頼により、吉田兼右が吉田社・斎場所・妙見社に尼子氏討滅の祈念を捧げる。
12月、吉田兼右が帰京する。
《皇紀2205年 天文14年 後奈良天皇20年 西暦1545年》39
1月5日、正三位に叙される。
4月、『大内家壁書』で、ぜいたくを戒めて食事は三汁(二汁とも)・三菜までと定める。ただし、殿中の節日・来客の時は除くとする。
5月、相良武任が剃髪して義隆のもとを去る。
8月22日、安国寺真鳳に、相良武任の赴いた肥後は方角がよくないから豊後の大友氏のもとか、京都、堺、近江あたりへ赴くよう武任に意見するよう依頼する。
9月29日、相良武任に、小槻伊治が肥後に下向するからとして、伊治とともに上洛する準備をするよう勧める。
この年、京にある吉田兼右から『亀卜次第并祭文』についての問いに対する答えを得る。
この年、長男義尊が生まれる。これにより、大友晴英(のちの大内義長)との養子の契約はなかったことにして、義
尊を嫡子とする。
この年、厳島神社の大鳥居を改造する。
男子が生まれけり。のちの義尊。
《皇紀2206年 天文15年 後奈良天皇21年 西暦1546年》40
春〜翌々年、清原業賢(あるいはその子頼賢とも)・小槻伊治を講師として、柳原資定・持明院基規・在将・竹田定
慶・山口神光寺の住持らと四書・五経の輪読会を開く。
《皇紀2207年 天文16年 後奈良天皇22年 西暦1547年》41
2月20日、『渡唐船法度条々』を定める(この掟書で遣明船一行の綱紀粛正を図る)。
[2月]、将軍家の命で策彦周良らを遣明使節として派遣する(大内氏が配船を独占する)。
3月19日、兵部卿に任じられる。
[3月]、吉田兼右から『唯一神道北斗七元神法次第』を贈られる。
6月、京都六条八幡社に太刀1腰・馬1疋を寄進する。
8月、備後の大内方への援助のため、小原隆言らを安芸に出陣させる。
11月27日、厳島の勅額のために後奈良天皇から賜った宸翰を、厳島の大願寺に贈る。
[11月]、稽円西堂を朝鮮への遣使として送る(朝鮮との交渉がまとまらず、交易を行わずに帰国)。
12月下旬、小原隆言が安芸から山口に戻り、備後の外郡のほとんどが大内方となったことを義隆に報告する。
《皇紀2208年 天文17年 後奈良天皇23年 西暦1548年》42
4月、備後平定のため、陶隆房・小原隆言らを備後へ派遣する。
8月、相良武任が義隆に再出仕する。
9月、毛利元就が義隆に、次男元春の吉川氏相続を申請する。
12月、従二位に叙される。
《皇紀2209年 天文18年 後奈良天皇24年 西暦1549年》43
1月、麻生余次郎による小田村備前守誅伐の件について陶隆房に詰問する。陶隆房は余次郎との契約状を書き換えて義隆に示し、存知してない旨を陳情する。また、相良武任に命じて内々に調べさせるが、武任からは隆房の謀反はないとの報告を受ける。
3月1日、毛利元就が築山館に義隆を訪問する。
3月5日、毛利元就を邸での宴会に招待する。
3月23日、陶隆房が毛利元就を宴会に招待する。義隆も招かれて同席する。
4月12日、毛利元就が義隆をその旅館である浄光寺に招待し、饗応する。
4月22日、毛利元春の吉川氏相続を正式に承認する。
4月26日、薬湯を設けて毛利元就を招く。
5月15日、毛利元就を宴会に招く。
5月17日、毛利元就が近く帰国するについて義隆がその宿へ暇乞いに出向き、元就に内外のことを依頼する。
5月17日、毛利元就が義隆の屋形に来て暇乞いをする。
9月4日、平賀勢が備後の村尾城(神辺城)を攻め落とす。
9月、弘中隆兼・青景隆著を備後へ派遣し、隆著を村尾城督に任命する。
冬、貞子と離縁して貞子を京へ送り返し、おさいの方を継室とする。
この年、内藤興盛の娘(のちの尾崎局)を養女として毛利隆元に嫁がせる(ただし、前年との説もある)。
《皇紀2210年 天文19年 後奈良天皇25年 西暦1550年》44
6月9日、明へ派遣していた策彦周良が山口に帰着し、義隆はこれを厚く賞する。
7月23日、毛利元就に、井上衆誅伐の成功を祝う。
このころ、義隆が今八幡宮と周防三宮である仁壁神社に参詣する直前になって、義隆の参詣する途中に陶隆房が義隆と相良武任をとらえて幽閉する計画が進められているとの風説や義隆が参詣して留守をする間に隆房が武任の館を襲撃するとの風聞が立つ。
9月15日、今八幡宮などへの参詣を取りやめ、右田右京亮に代参させる。
9月16日、軍兵を動員して館を警固させる。陶隆房は風説については存知しないことであると弁明し、隆房に荷担するとの噂の立った内藤興盛・杉重矩は義隆に子や孫を人質として送り、野心のないことを誓う。
9月16日、夜半に義隆の軍兵が陶隆房の邸を襲撃するとの風聞が立ち、隆房が武装して戦備を整える。
9月16日、相良武任が再び出奔する。
9月17日、使者を陶隆房邸に派遣し、兵具を整えたことの子細を詰問させる。隆房は、家人を集めたのは年来の大頭役の役者を定めるためであり、兵具の件は虚説であると弁明する。数回の弁明の後に騒ぎは収まる。
{9月下旬ごろ}、ザビエルの一行を引見し、キリスト教の教義を聞くが共感せず。
[9月]、山科言継が義隆に、安芸国役として内侍所燈油料6月分を旧例通りに納めるよう申し下す。
11月27日、陶隆房が暇を乞うて山口を去り、富田に帰る。以後、隆房は出仕せず。
《皇紀2211年 天文20年 後奈良天皇26年 西暦1551年》45
1月27日、毛利元就に大内氏の家中で錯乱が起こった際には来援するよう求める。
2月ごろ、築山館でザビエルと会見し、13種類の進物を献上される。これに満足し、直ちに大内領国内での領民の入信を許可する。同時に、家臣に対して神父たちへ煩わしさを加えないように命じ、神父とその従者たちが住めるようにと、無住の寺院(のちの大道寺)を与える。
このころ、ザビエルと面会して、聖書と注釈書を薦められるが、それには目もくれず、ザビエルの持っていた金襴の祭服をしきりに見たがり、着て見せるよう頼み、ザビエルが着て見せると、手をたたいて喜ぶ。
4月、杉興運からの注進を受けて相良武任を再び出仕させる。
このころ、陶隆房が大友氏と交渉を始めたころと前後して大友義鎮に密書を遣わして同調を求めるが、大友家中では隆房を支援することに決まる。
5月9〜11日、厳島神主の斡旋で義隆千句が興行される。
8月10日、相良武任が義隆の密命をおびて吉見正頼のもとへ向かう(これは、武任の従前の行動からして出奔ともみられている)。
8月中旬、大友義鎮の家督相続を知らせる使者が山口を訪れる。
8月中旬〜、大友義鎮の使者に連日の饗宴を催す。
8月20日、陶隆房が義隆に対して挙兵して厳島を占領する。
8月23日〜、山口町中で陶隆房の討ち入りの噂が広がって大騒動となり、住民の多くは家財を背負って避難し始め
る。
8月下旬、将軍義輝や大友義鎮の使者を迎えて連日連夜、酒宴を続ける。
8月27日、大友義鎮の使者などをもてなすため、能を興行する。普段は見物の群衆が訪れるが、陶隆房謀反の噂により、この日は一人も訪れず、興が冷める。
8月28日、陶隆房が若山城を発し、山口に向かって進撃する。
8月28日、重縁関係で結ばれていることを理由に特に内藤興盛を頼みとし、直筆の書状をしたためて出仕を呼びかけるが、興盛は応答せず。
8月28日、冷泉隆豊が義隆に、陶隆房と結ぶ杉重矩を討伐するよう進言するが、杉重矩・内藤興盛の両人は義隆の近臣であったので、義隆は杉・内藤が背くことはあるまいとしてこれを受け入れず。
8月28日、山口の町を去り、法泉寺に逃れる。
8月29日、陶隆房・杉重矩・内藤興盛らの反乱軍が山口に乱入し、さらに法泉寺に迫る。
8月29日、二条尹房が内藤興盛のもとに使者を派遣して、義隆の隠居と義尊の家督相続を条件に和睦を呼びかける
が、拒絶される。
8月29日、大内家代々の重書を今八幡の宝殿に納めようとするが、神光寺の住持・大宮司の両人から拒否される。
8月29日、母東向殿が心身の疲労により病身となり、それを知った義隆が、政情不安定の中にもかかわらず、医師の楊井国久を派遣し、治療にあたらせる。
8月29日、おさいの方を宮野に逃がし、義尊を先立たせて自らは徒歩で法泉寺を出る。
8月29日、綾木を経る。
8月29日、長門の岩永の即心庵に逃れる。
9月1日、仙崎で乗船する。一旦は出港するが、程なく、強風のために仙崎に引き返す。
9月1日、長門の大寧寺に逃れる。ここで異雪慶殊の弟子となり、瑞雲珠天の戒名を与えられる。
9月1日、陶晴賢の命を受けた柿並佐渡守らが率いる反乱軍に大寧寺を囲まれ、自刃する(享年45)。法名は龍福寺殿瑞雲珠天大居士。墓所は大寧寺。
辞世の句は
討つ人も討たるる人も諸ともに
如露亦如電応作如是観
(にょろやくにょでんおうさにょぜかん)
とのことであるが、後人の偽作とされる。
9月1日、冷泉隆豊の介錯で自害しけり。
《皇紀2217年 弘治3年 後奈良天皇32年/正親町天皇元年 西暦1557年》
毛利隆元が義隆の7回忌を記念して、義隆の菩提寺として築山館跡に龍福寺を再建する。
《皇紀2235年 天正3年 正親町天皇19年 西暦1575年》
毛利輝元が義隆の25回忌の追善供養を執行する。
《皇紀2243年 天正11年 正親町天皇27年 西暦1583年》
毛利輝元が義隆の33回忌の追善供養を執行する。
《皇紀2260年 慶長5年 後陽成天皇15年 西暦1600年》
毛利氏が義隆の50回忌の千部執行を営む。
《皇紀2265年 慶長10年 後陽成天皇20年 西暦1605年》
毛利輝元が義隆の霊を山口の多賀神社に勧請し、宝現霊社と称して祀り、社領5石5斗5合を寄進する。
