大内義興(おおうちよしおき)
名字と諱
大内義興
諱以外
亀童丸 新介 六郎 大内介
氏(本姓)
多々良
姓
朝臣
位階
正六位上 従四位下 従四位上 従三位
官職
周防権介 左京大夫
室町幕府での役職
周防守護 長門守護 豊前守護 筑前守護 石見守護 安芸守護 山城守護 管領代
本拠
築山館
》の右の数字は数え年
《皇紀2137年 文明9年 後土御門天皇14年 西暦1477年》1
2月15日、京にて生まれけり。
《皇紀2145年 文明17年 後土御門天皇22年 西暦1485年》9
5月19日、父政弘が『大内家壁書』で亀童丸の乗馬供衆について定めけり。
《皇紀2146年 文明18年 後土御門天皇23年 西暦1486年》10
2月3日、氷上山上宮に詣でけり。
2月13日、父政弘と共に妙見社下宮の遷宮に臨みけり。
3月下旬、三条公敦が亀童丸に、かつて三条公忠が書写して後小松上皇に奉献した孝経を与えけり。
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《皇紀2148年 長享2年 後土御門天皇25年 西暦1488年》12
1月30日、将軍義尚が亀童丸に義興の二字を与えけり。
2月13日、周防権介に任ぜられけり。
この年、元服し義興と名乗りけり。
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《皇紀2151年 延徳3年 後土御門天皇28年 西暦1491年》15
将軍義材の六角高頼討伐を支援するため、父政弘の命で京へ向かう。
12月25日、入京する。
12月27日、軍勢を率いて入京しけり。
12月27日、近江の将軍義材のもとに参陣する。
大内勢は洛中の法花堂に駐屯しけり。
《皇紀2152年 延徳4年 後土御門天皇29年 西暦1492年》16
1月18日、清水寺に参詣しけり。
《皇紀2152年 明応元年 後土御門天皇29年 西暦1492年》16
10月、病にかかりけり。
12月14日、将軍義材が六角高頼追討を終えて京に戻る。
《皇紀2153年 明応2年 後土御門天皇30年 西暦1493年》17
将軍義材の畠山基家討伐に参加しけり。
2月15日、畠山基家討伐のため、将軍義材が諸大名や奉公衆を率いて河内へ向けて出陣する。
2月17日、山崎に入りけり。
摂津国から和泉国に移りけり。
3月末頃、和泉国堺北庄に布陣しけり。
4月下旬、明応の政変が起こる。
閏4月、和泉堺に布陣したまま動かず。
他の諸将は細川政元に同調して京に戻ったが、義興は周防へ帰る。
《皇紀2154年 明応3年 後土御門天皇31年 西暦1494年》18
病の父政弘より家督を譲られけむ。(翌年とも
《皇紀2155年 明応4年 後土御門天皇32年 西暦1495年》19
2月28日、内藤弘矩による謀反を疑い、防府に兵を送り、弘矩を誅伐する。
8月8日、『大内家壁書』で長門一宮の住吉神社・二宮の忌宮神社の祭礼のことを定める。
[8月]、『大内家壁書』で養子に関する決まりを定める。
[8月]、『大内家壁書』で喧嘩に関する決まりを定める。
[8月]、『大内家壁書』で勘気を被った者に関する決まりを定める。
9月18日、父政弘が没しけり。
《皇紀2156年 明応5年 後土御門天皇33年 西暦1496年》20
6月10日、大内氏の兵に捕らえられた大友政親を長門の舟木地蔵院で切腹させる。
11月22日、少弐政資が筑前に乱入する。
12月13日、少弐政資討伐のため、筑前へ向けて山口を出陣する。
《皇紀2157年 明応6年 後土御門天皇34年 西暦1497年》21
1月、太宰府から少弐政資・高経父子を追放し、ここに本陣を構える。
春〜、軍を二手に分けて、筑前・肥前の少弐討伐にあたらせる。
3月13日、大内軍が博多の聖福寺門前で戦う。
3月15日、大内軍が筑紫村と城山(高鳥居城)で戦う。
3月、大内軍が諸城を落とし、肥前に乱入する。
3月23日、大内軍が肥前の朝日城を落とす。
このころ、戦いの見通しをつけて帰国する。
4月14日、大内軍が少弐政資を晴気城(小城城)に囲む。
4月16日、周防の五社(一宮の玉祖神社・二宮の出雲神社・三宮の仁壁神社・四宮の赤田神社・五宮の浅田神社)に参詣して、戦勝を祈願する。
4月18日、大内軍が晴気城(小城城)を落とす。少弐政資は多久へ逃亡する。
4月19日、少弐政資が多久の専称寺で、少弐高経が市の川の山中で自刃する。
4月29日、筥崎神人博多奥堂左衛門大夫に、御油役諸公事以下を免除する。
7月、豊後の兵が豊前に侵入する。
9月18日、父政弘の牌を高野山成慶院に立てる。
この年、2度、朝鮮へ遣使を送る。
《皇紀2158年 明応7年 後土御門天皇35年 西暦1498年》22
4月、大友義長の家督にクレームをつけ、大聖院宗心(大友親綱の子)を擁立することを表明し、策動を開始する。
このころ、少弐氏の残党が攻撃する肥前の綾部城への援軍として仁保護郷らを送る。
8月27日、仁保護郷ら大内軍が肄基・養父両郡で敵兵を破る。
11月上旬、右田弘量・末武長安に豊後を攻めさせる。
《皇紀2159年 明応8年 後土御門天皇36年 西暦1499年》23
1月、肥後の相良氏に、足利義尹を迎え入れるため、出征中の九州からとりあえず帰国したことを知らせる。
2月16日、杉武明の大護院尊光(のちの大内高弘)を擁立するとの企てを知り、武明を切腹させる。尊光は大友氏を頼って豊後へ走る。
4月、『防長両国半済法度条々』を発令する。
7月25日、杉弘国ら大内勢が豊前で戦う。
9月、平賀弘保に、足利義尹の下向が延引するようなので、まず豊筑の敵を退治するために渡海するから、急ぎ参陣するよう求める。
11月、太宰頼総らが筑前で乱を起こす。
11月19日、義興の派遣した大内勢が大分村で太宰氏を破
る。
この年〜、惣国寺社領の糺明を開始し、これに応じない寺社に対しては、半済分・寺社得分を合わせて没収し、それを給人に与える。
この年、朝鮮へ遣使を送る。
《皇紀2160年 明応9年 後土御門天皇37年 西暦1500年》24
3月5日、山口入りした足利義尹を今八幡宮司坊の神光寺に迎えて饗応する。
《皇紀2160年 明応9年 後土御門天皇37年/後柏原天皇元年 西暦1500年》24
この年〜、山口滞在中の足利義尹が中国・九州の諸将に御内書を与え、入京を企図する。義興はこれに添書して義尹への忠勤を求める。
《皇紀2161年 明応10年 後柏原天皇2年 西暦1501年》25
2月1日、足利尊氏が建武3年に豊前の宇佐八幡宮に奉納した旗が今八幡宮で見つかり、これを足利義尹に進呈する。
2月3日、今八幡宮に重代の菊銘の太刀・親子という名の
刀・馬1疋を寄進する。
2月4日、旗の模本を造り、今八幡宮に納める。
《皇紀2161年 文亀元年 後柏原天皇2年 西暦1501年》25
6月13日、信濃の小笠原貞忠に、足利義尹を擁して上洛する決意を伝え、味方になるよう誘う。
閏6月9日、後柏原天皇が義興追討の治罰綸旨を発給する。
閏6月20日、大友・少弐軍が豊前の馬岳城(馬嶽城,馬岡城,高山城,小高山城)を攻める。
閏6月24日、義興が馬岳城の救援に派遣した仁保護郷が豊前の沓尾崎で大友・少弐軍に敗れて戦死する。
7月6日、氷上山妙見社に重代の剣鳶切を奉納し、九州の凶徒退治を祈願する。
7月23日、義興が馬岳城の救援に派遣した杉弘依らが馬岳城の兵とともに大友・少弐の兵を退ける。
8月10日、細川政元が毛利弘元・小早川扶平などに、義興退治の後柏原天皇の治罰綸旨や将軍義高(のちの義澄)の御内書が発せられたことを知らせて忠節を求め、細川方の大内高弘や大友親治父子などと相談するよう命じる。
《皇紀2162年 文亀2年 後柏原天皇3年 西暦1502年》26
朝鮮へ遣使を送る。
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《皇紀2166年 永正3年 後柏原天皇7年 西暦1506年》30
この年、豊前・筑前の大内氏の属城が大友・少弐両氏によ
り攻撃を受けたので、義興の命で陶興房が筑前に出陣す
る。
この年、朝鮮へ遣使を送る。
この年、日明貿易に参加する(出航は永正8年)。大内船2
艘・細川船1艘に決まる。
《皇紀2167年 永正4年 後柏原天皇8年 西暦1507年》31
6月23日、京都で細川政元が暗殺される。
11月15日、男子が生まれけり。のちの義隆。
11月25日、足利義尹を擁し、山口を発して東上を開始して防府に入り、中国・九州の兵を召集する。
12月〜、安芸厳島で軍勢を整え、北九州や伊予の請勢を加える。
《皇紀2168年 永正5年 後柏原天皇9年 西暦1508年》32
3月、因島村上氏に所用の警固船を準備するよう依頼する。
4月上旬、細川高国が細川澄元を裏切り、足利義尹・大内義興の側につき、先鋒として京へ向けて東上する。
4月9日、細川澄元・三好之長が京を出て近江に逃亡する。
4月10日、細川高国が入京する。
4月16日、将軍義澄が京を出て近江の坂本へ走る。
4月27日、足利義尹とともに和泉の堺に着き、細川高国・畠山尚順らの出迎えを受ける。
6月8日、足利義尹に従って入京する。これ以後、在京す
る。
6月15日、石清水八幡宮に剣1腰・馬1疋を寄進する。
7月1日、足利義尹が征夷大将軍に再任される。
7月上旬、管領代(管領とも)となる。
7月27日、神祇官に禁制を掲げる。
[7月下旬]、義興の周防帰国の風説が流れて、後柏原天皇や公家が動揺する。
8月1日、後柏原天皇の主導により従四位下に叙される。
9月5日、細川高国らとともに観世能を観賞する。
9月14日、従四位上に叙される。
9月25日、猿楽を興行する。
9月29日、将軍義尹が義興の邸へ行き、帰国を思いとどまるよう説得する。
10月14日、父政弘に従三位が追贈される。
10月14日、細川高国らとともに山城の高尾山で紅葉を観賞する。
10月15日、石清水八幡宮社司である田中清徳丸(のちの兄清)に、分国中の同社領を知行させる。
11月中旬〜、義興が周防に帰国して足利義澄の兵が京都を攻めるとの噂が立つ。
11月23日、泉涌寺に山城西九条の内を安堵する。
11月23日、金光寺に同寺領及び諸末寺領を安堵する。
11月25日、幕府が義興に、足利義澄の兵が京都を攻めた際はこれを防ぐよう命じる。
11月25日、京都の守備について細川高国と相談する。
12月23日、東大寺が寺門を閉鎖して、義興が東大寺領である周防国衙を横領していることを訴える。
《皇紀2169年 永正6年 後柏原天皇10年 西暦1509年》33
1月21日、長門の長寿坊に禁制を掲げる。
2月28日、後柏原天皇が義興に薫貝を賜う。
4月13日、東大寺に、父政弘時代以来横領してきた周防国衙を還付する。
6月17日、細川高国らとともに如意ヶ岳に三好之長を囲むが、之長は暴雨に乗じて逃亡する。
7月5日、伊勢貞陸が義興に、故実についての問いに対して答える。
8月、筑前で大内方と少弐方が戦う。
9月14日、東大寺に、周防の椹野荘を還付する。
11月2日、石清水八幡宮に馬1疋を寄進する。
12月13日、禁裏御料所内蔵寮領陸路淀河四方八之口内鳥羽分が東寺寺領と定められたことにより、同寺にそれを警固するよう命じる。
《皇紀2170年 永正7年 後柏原天皇11年 西暦1510年》34
2月13日、権少僧都寛海を東大寺領周防阿弥陀寺の寺務職に任じる。
4月3日、自邸で犬追物を興行する。
4月4日、朝鮮による交易制限に怒った対馬の宗氏が、恒居倭(朝鮮の三浦に居住する日本人)と結んで釜山浦で暴動を起こす(三浦の乱)。
7月7日、犬追物を興行する。
このころ、近江日吉社十禅師に、大蔵経を寄進する。
7月19日、豊前の宇佐郡の段銭のうち152貫600文を永正6,7年分の宇佐宮神用銭にあてる。
8月9日、自邸で犬追物を興行する。
8月13日、京都上下米場座中に、洛中諸口の駄米をその座以外の小売在所に預けることや他所で市を立てることを禁止する。
10月14日、将軍義尹が義興の邸を訪ねる。
11月、使いを朝鮮に派遣し、宗氏が釜山浦を侵撃したことによって朝鮮との好を損なうことのないよう請う。
《皇紀2171年 永正8年 後柏原天皇12年 西暦1511年》35
1月29日、小御所で猿楽を陪観する。
2月1日、長門の南明寺に制札を掲げる。
3月30日、幕府が大内義興・細川高国・畠山義元らを饗応する。
5月12日、足利義澄が大友義長に御内書で、義興の分国に侵攻するよう命じる。
6月28日、細川高国邸での犬追物に臨む。
7,8月、細川澄元が阿波から京へ向けて東上する。
8月中旬、足利義澄方の細川政賢らが京に迫る。
8月中旬、敵の来鋭を避け、京を出て敵を入京させて、敵の心がおごったところを反撃することを提案する。
8月16日、将軍義尹を奉じて京を出て丹波に入る。
8月16日、細川政賢らが入京する。
8月23日、細川高国らとともに長坂山に陣を置く。将軍義尹は高雄に陣を置く。
8月23日、細川政賢ら足利義澄方は紫野・船岡山・今宮林に陣を置く。
8月24日、船岡山を攻め、大勝し、細川政賢を討ち取る。
8月25日、山城の天竜寺・臨川寺など諸塔頭で軍勢や一般人が濫妨狼藉・竹木採取することを禁止する。
9月28日、後柏原天皇が義興に宸筆の女房奉書で、義興の船岡山での戦功を賞し、帰国を思いとどまるよう求める。
10月2日、細川高国が義興を自邸に招待する。
12月25日、嵯峨野の西芳寺で雪景色を観賞し、
かく許(ばかり)とをきあづまの富士のねを
今ぞ都の雪のあけぼの
との歌を詠む。
12月28日、山崎衆が義興に物を贈る。
《皇紀2172年 永正9年 後柏原天皇13年 西暦1512年》36
{春}、前年12月25日の歌に対して伏見宮貞敦親王・一条冬良など14名からの答歌がある。
{春}、前年12月25日の歌が天聴に達し、後柏原天皇から
雪に見し山は富士の根言のはの
代々のその名も雲の上まで
との自筆の御製を賜る。
2月13日、翌年の興隆寺修二月会大頭役などを定める。
3月14日、参内して、後柏原天皇から賜った御製のお礼として太刀・綸子1端・盆1枚・馬1疋を進上する。
3月17日、細川高国らとともに山城の大慈院で猿楽を観賞する。
3月26日、前年の船岡山での功により従三位に叙される。
3月26日、母今小路が亡くなりけり(享年58)。
閏4月28日、東大寺に、義興の亡母追善のために法華経を書写して贈ってきたことを謝する。
この年、周防の香積寺の鐘を鋳造し、周麟(景徐)に銘を作らせる。
この年、幕府と義興の仲介により、朝鮮と対馬の宗氏の間に壬申条約が締結される。
この年、康楽を朝鮮に派遣する。
この年、寒川氏を西蕃に派遣する。
《皇紀2173年 永正10年 後柏原天皇14年 西暦1513年》37
2月6日、将軍義尹が義興に帰国を命じる。
2月13日、翌年の興隆寺修二月会大頭役などを定める。
3月17日、将軍義尹が大内義興・細川高国の専恣を怒り、近江の甲賀に出奔する。
2月20日、公用催促についての事書を定める。
4月12日、大内義興・細川高国らが将軍義尹に起請文で、義尹の命に背かないことを誓う。
5月1日、細川高国らとともに近江の坂本まで将軍義尹を迎えに行く。
5月3日、将軍義尹を奉じて帰京する。
9月23日、豊前の宇佐宮の神官である宮氏に同宮大大工職を安堵する。
《皇紀2174年 永正11年 後柏原天皇15年 西暦1514年》38
2月13日、翌年の興隆寺修二月会大頭役などを定める。
3月7日、伊勢貞陸が義興に、武家殿上の作法・故実の習得についての問いに対して答える(『大内問答』)。
4月18日、三時智恩寺椿性女王の茶湯に招待される。
9月11日、三条西実隆が唐船のことについて義興に交渉する。
11月、義興の所望により伊勢貞明が貞藤著の『御成次第故実』を書写する。
《皇紀2175年 永正12年 後柏原天皇16年 西暦1515年》39
2月13日、翌年の興隆寺修二月会大頭役などを定める。
2月18日、長門一宮社法楽和歌会を興行する。
武田元繁に養女(飛鳥井雅俊の娘)をめあわせ、安芸の混乱を収めるために元繁を帰国させる。
武田元繁が義興の養女を離別し、義興に背いて自立する。
11月13日、氷上山の妙見社に太刀1腰・物腰1腰を寄進す
る。
12月2日、将軍義稙(義尹改め)が三条高倉の新邸に移る。
義興は病により出仕できず、杉興宣を遣わして太刀・折紙を献上し、新邸の落成を祝する。
《皇紀2176年 永正13年 後柏原天皇17年 西暦1516年》40
2月17日、細川高国が自邸で畠山稙長・大内義興らを饗応し、猿楽が催される。
[春]、宗碩から古今伝授を受ける。
4月9日、近衛尚通に百首和歌の染筆を送るよう請う。
4月12日、興福寺衆徒らが普賢寺悪党の成敗を以前から求めていたが、これが遅れているので山城守護である義興に対して来る16日に閉門して七大寺十五大寺衆徒とともに幕府に出訴しようとするのを、幕府が事情を告げて出訴を中止するよう命じる。
4月19日、幕府が義興に、今後の遣明船の沙汰を一任する。
5月以前、朝鮮へ遣使を送る(この年1回目の朝鮮への遣
使)。
7月11日、近衛尚通が義興に、百人一首の和歌を書いて贈る。
7月16日、百人一首の奥書を求めてこれを近衛尚通に送り返す。
7月19日、近衛尚通が百人一首に奥書などを加えて義興に送り返す。
7月28日、近衛尚通に百首和歌の染筆を送るよう請う。
8月6日、近衛尚通に、百人一首の件について礼物を贈る。
8月14日、伊勢貞陸が義興に、伊勢神宮参宮の故実(参宮従者行列の例規)についての問いに対して答える。
[8月]、光悦を朝鮮に派遣し、豊後の万寿寺再建の援助を求める(この年2回目の朝鮮への遣使)。
10月5日、近衛尚通を訪ねる。馬・太刀などを贈る。
10月6日、近衛尚通が義興に、太刀1腰を贈る。
10月8日、近衛尚通に、一昨日のお礼の使者を送る。
10月20日、年貢争論のことをめぐって大内勢が天竺上野介と山城の太秦で戦う。
《皇紀2177年 永正14年 後柏原天皇18年 西暦1517年》41
1月27日、細川高国が義興を自邸で饗応する。犬追物が催される。
2月13日、翌年の興隆寺修二月会大頭役などを定める。
3月5日、義興の求めにより近衛尚通が義興に、和歌詠草を贈る。
3月5日、長門一宮の住吉神社に法楽和歌を勧進する。
3月14日、自邸で細川高国を饗応する。
6月上旬ごろ、畠山尚順の進退のことについて将軍義稙との間を取り持つ。
7月25日、前住持の華岳比丘尼の遺言通り、妙喜寺慈淵を周防の顕孝院の住持とする。
8月11日、前石見守護代から頼られた尼子経久が、石見守護である義興による石見支配を妨げるので、幕府が益田宗兼に義興へ合力するよう命じる。
9月15日、平賀弘保と小早川弘平に、互いに年来の恨みを捨てて一味同心して武田元繁にあたるよう訓諭する。
10月26日、幕府が山城守護である義興に、承青侍者が義興の被官人を語らって久我通言の家領である同国久我荘法久寺分山内跡を押領するのを止めるよう命じる。
[10月]、延暦寺不動院が山城守護である義興に、吉岡某が同院領である山城の西九条の田地の本役を緩怠することなどを訴える。
閏10月2日、将軍義稙が病により摂津の有馬で湯治するため、京を出る。
閏10月4日、京を出て堺へ向かう。
閏10月28日、将軍義稙が帰洛する。義興は帰洛せず、堺にとどまる。
12月14日、義興の要請により、近衛尚通が長門一宮の法楽和歌を詠献する。
《皇紀2178年 永正15年 後柏原天皇19年 西暦1518年》42
1月22日、将軍義稙が伊勢貞陸を派遣して堺に滞在中の義興に入京を促す。
2月13日、翌年の興隆寺修二月会大頭役などを定める。
[2月]、豊前の香原社の社司である赤染秀種に香春山を安堵する。
8月2日、堺を発し、周防へ向かう(『公卿補任』)。
8月27日、将軍義稙が義興に御内書で、帰国を許す(『相良家文書』)。
9月28日、中務少輔某を周防の椹野荘中領八幡宮の宮司職に任じる。
10月5日、山口に帰還する。
10月14日、『大内家壁書』で領内での撰銭を禁止する。
[10月]、宇佐八幡宮第二殿立柱上棟の祝儀を寄進する。
12月20日、筑前の太宰府天満宮の宮司である満盛院快竹の訴訟により、同院領である同国の戸栗・重富両郷の半済地を同院に還付する。
《皇紀2179年 永正16年 後柏原天皇20年 西暦1519年》43
2月1日、『大内家壁書』で、被官の子息などが大内氏の許可なく勝手に奉公することを禁止する。
2月13日、翌年の興隆寺修二月会大頭役などを定める。
2月13日、興隆寺に絵を寄進する。
3月27日、杉興長に、太宰府天満宮社家中が同宮日別御供を延引するのを止めるよう命じる。
4月24日、筥崎八幡宮神人奥堂左衛門大夫に、御油役諸公事以下を免除する。
《皇紀2180年 永正17年 後柏原天皇21年 西暦1520年》44
1月、将軍義稙に、年始の祝儀として太刀1腰・鵞眼2千疋を進上する。
2月13日、翌年の興隆寺修二月会大頭役などを定める。
2月13日、興隆寺に硯・筆などを寄進する。
3月25日、太宰府天満宮満盛院に、院領である筑前の戸栗・重富両郷を安堵する。
4月12日〜、堅小路の祇園社を壊してこれを高嶺へ運ぶ。
5月13日、周防の興隆寺領の段銭・臨時課役などを免除する。
6月6日、祇園社の高嶺への移築が終わる。
6月18日、祇園社の遷宮が行われる。
6月26日、周防の興隆寺に、その末寺である安芸の福成寺領を本寺領中に併合して寺役を務めるよう命じる。
6月29日、高嶺神社(移築した祇園社)の遷宮の儀を行う。
8月30日、将軍義稙が義興に、年始の祝儀の礼として太刀1振を贈る。
9月29日、慶讃を周防の椹野荘中領八幡宮の宮司職に任じる。
10月2日、安芸の洞雲寺に、小幡興行が同寺領を押妨するのをやめさせたことを伝え、同寺に寺領を安堵する。
10月28日、秀哲を筑前の宇美八幡宮の社務職に任じて、社家領を安堵する。
12月6日、豊前の門司八幡宮の大宮司である大神氏友に、同宮領・四所大明神免田畠などを安堵する。
12月8日、飯田興秀に、豊前の寺社帳を検覧したことを伝え、寺家と寺領については旧例によって処理するよう命じる。
12月13日、豊前の吉田八幡宮の大宮司である源氏貞に、同宮領(吉田保)・竜王宮免田などを安堵する。
この年、少弍資元が義興に、少弍氏の代々の家臣である筑紫・江上・朝日などの諸氏を登用しないよう求める。
この年、日明貿易に参加する(出航は大永3年)。勘合船3艘はすべて大内氏が独占する。
《皇紀2181年 永正18年 後柏原天皇22年 西暦1521年》45
2月13日、翌年の興隆寺修二月会大頭役などを定める。
2月15日、筑前の宇美八幡宮社務の房秀に、近年不知行であった同社領を安堵する。
3月11日、安芸の洞雲寺領の諸課役を免除する。
5月13日、『大内家壁書』で、諸人可存知条々を定め、分国追放者・逃亡者の庇護などを禁止する。
7月5日、秀助に長門の正法寺の別当職を安堵する。
《皇紀2181年 大永元年 後柏原天皇22年 西暦1521年》45
11月1日、周防の興隆寺本堂の再建上棟式を行い、これに出席する。
11月2日、島津忠朝に太刀1腰を贈り、渡唐船の新造を引き受けてくれたことを感謝する。
《皇紀2182年 大永2年 後柏原天皇23年 西暦1522年》46
1月13日、『大内家壁書』で、近日行われるの安芸への出兵の際の陣中で喧嘩した者は成敗すること定める。
2月13日、周防の妙見社に剣1腰・馬1疋を寄進する。
3月、周防・長門・豊前・筑前などの軍勢を動員して陶興房を安芸に派遣する。
[3月]、豊前の宇佐八幡宮造営についての条々を定める。
このころ、大内軍は武田方の白井氏や武田勢と戦うが、これを崩せず。
6月、『大内家壁書』で諸宗の争論を禁止する。
8月15日、筑前の霊鷲寺の再建を許可する。
8月20日、毛利元就に、壬生城攻略の戦功を賞し、同方面の経略に尽力するよう命じる。
[8月]、陶興房ら大内軍が、戦果のそれほどないまま安芸から引き揚げる。
冬、毛利氏が尼子経久の圧力に屈して尼子方となる(『吉田物語』, 『温故私記』)。
《皇紀2183年 大永3年 後柏原天皇24年 西暦1523年》47
永正17年度の日明貿易に使節として宗設謙道らを明に派遣する。
4月11日、友田興藤が挙兵して己斐城・桜尾城・石道本城の大内氏の城番を追放して桜尾城に入り、厳島神主とな
る。
4月26日、周防の凌雲院に、周防の潟上荘鋳銭司のうち51石あまりの地を寄進する。
4月30日、細川高国が大内氏とは別に明との貿易の使節として送り込んだ瑞佐と正式な使節の真偽を争っていた宗設謙道が瑞佐らを殺害し、寧波を焼き、明官人を捕らえて逃亡する(寧波の乱)。
6月、尼子経久が安芸の山県郡へ進出し、毛利氏の協力を得て大内氏の属城鏡山城を攻略する。
友田興藤を攻撃するため、陶興房・弘中興勝・弘中武長らを安芸に出陣させる。
8〜11月、安芸で陶興房・弘中武長ら大内軍が友田興藤・武田勢と戦う。
11月15日、安芸・石見両国が本意どおりとなったならば宇佐八幡宮下宮を建立するとの立願をする。
《皇紀2184年 大永4年 後柏原天皇25年 西暦1524年》48
2月13日、翌年の興隆寺修二月会大頭役などを定める。
周防・長門・豊前・筑前の大軍を率いて安芸へ向かう。
5月20日、岩国の永興寺に陣を置く。
6月、陶興房が大野城を攻略したとの知らせが入ったので、義隆とともに厳島に進む。
6月〜、義隆に武田光和の籠る銀山城(金山城)を攻めさせる。
このころ、大内軍が草津城を落とす。
このころ、大内軍が仁保城(仁保島城)を落とす。
7月3日〜、厳島から軍を派遣して桜尾城に友田興藤を囲
む。
7月〜、厳島の勝山に仮館を設けて本営とし、日々桜尾に渡って兵士の働きを監督する。
7月24日〜8月1日、大内軍が桜尾城を攻める。
8月23日、大内軍が桜尾城を攻める。
[8月]、義隆が毛利元就に敗れて銀山城攻めを中止して退却する。
友田興藤が吉見頼興を通じて義興に降伏する。
10月10日、厳島に送られてきた友田興藤の息子である藤太郎と対面する。
この年、朝鮮へ遣使を送る。
《皇紀2185年 大永5年 後柏原天皇26年 西暦1525年》49
1月5日、岩戸の陣中で連歌会を興行する。
2月10日、義隆とともに厳島の野坂房顕の邸で陶興房の饗応を受ける。
2月13日、翌年の興隆寺修二月会大頭役などを定める。
2月22日、大野に渡り、門山を訪れる。
2月下旬、門山から厳島に戻る。
2月26日、厳島から門山に陣を移す。
3月、毛利元就が尼子氏から離れ、大内方となる。
このころ、貫武助に弘安礼節の抄本と文章の書き方その
他、武家書札のことについて記録させる。
4月〜、陶興房を安芸に進攻させる。
6月、毛利元就の仲介により天野興定が義興に降る。
陶興房ら大内軍が備後に進攻する。
12月27,28日、大友氏からの援軍が厳島に到着する。
この年、筑前で徳政一揆が起こるが、大内軍がこれを平定する。一揆の張本人は誅伐される。
この年、朝鮮へ遣使を送る。
《皇紀2186年 大永6年 後柏原天皇27年 西暦1526年》50
春、大内軍が大友軍とともに佐東府中城へ向かい、石道新城などが戦わずして大内氏のものとなる。
春、府中城の白井備中守が開城して大内氏に降伏する。
《皇紀2186年 大永6年 後柏原天皇27年/後奈良天皇元年 西暦1526年》50
このころ、阿曽沼氏が開城して大内氏に降伏する。
《皇紀2186年 大永6年 後奈良天皇元年 西暦1526年》50
5月9日、『大内家壁書』で、分国の領民が徳政を要求することを禁止する。
7月5日、弘中隆兼ら大内軍が安芸の草津で戦う。
このころ、大友氏の国許についての不穏な噂により大友軍が帰国する。
大友軍の帰国により、阿曽沼氏・白井備中守が武田方に寝返る。(前年終わり?位置不確か
《皇紀2187年 大永7年 後奈良天皇2年 西暦1527年》51
2月、陶興房を広島湾東岸部に出陣させる。
3月、陶興房ら大内軍の攻撃により武田方の阿曽沼氏が大内氏に降伏する。
4月〜、陶興房ら大内軍が武田方の白井備中守を府中城に攻める。
1ヵ月にわたる攻防の末、仁保島城の白井房胤が大内氏に降伏する。
7月、ほぼ広島湾頭を制圧した陶興房ら大内勢が備後に進出する。
9月、備後の和智豊郷が尼子方から大内方に転じる。
[9月]、源松を明へ送り、明の皇帝の即位を賀する。
《皇紀2188年 大永8年 後奈良天皇3年 西暦1528年》52
7月、安芸の門山で発病する。
7月14日、大内氏の諸将が厳島に集まって協議し、義興の帰国や安芸からの撤退について話し合う。
[7月]、少弐資元が筑前に進撃し、太宰府に迫る。
《皇紀2188年 大永8年/享禄元年 後奈良天皇3年 西暦1528年》52
このころ、将軍義晴に少弐資元の討伐を訴える。
このころ、細川高国の意見により幕府が少弐資元討伐を拒否する。
山口に戻る。
山口で療養する。
この年、石見の大森銀山の守りを固めるため、銀山の南西に矢滝城を築く。
《皇紀2188年 享禄元年 後奈良天皇3年 西暦1528年》52
12月20日、山口で病死する(享年52)。法名は凌雲寺殿傑叟義秀大居士。墓所は凌雲寺跡。
12月20日、没しけり。
