大内教弘

大内教弘(おおうちのりひろ)

 

【応永27年〜寛正6年】 室町前期〜中期

  祖父   内藤弘矩  

   祖母   

      一条房冬

  祖父 

  祖母   内藤弘矩

    

 

 

 

  大内持盛

 

名字と諱
 大内教弘
諱以外
 六郎 新介 大内介 築山殿
氏(本姓)
 多々良

 朝臣
位階
 従五位下 正五位下 従四位下 贈従三位
官職
 周防介 左京大夫 大膳大夫
室町幕府での役職
 周防守護 長門守護 豊前守護 筑前守護
本拠
 大内館⇒築山館
神号
 築山大明神

》の右の数字は数え年

《皇紀2080年 応永27年 称光天皇9年 西暦1420年》1
3月20日。生まれけり。

 

大内盛見の次男として生まれる。

 

《皇紀2091年 永享3年 後花園天皇4年 西暦1431年》12
6月28日、父盛見が筑前の深江で少弐氏に敗れて戦死する。

 

《皇紀2101年 嘉吉元年 後花園天皇14年 西暦1441年》22
6月24日、従兄弟で大内家当主の持世が将軍義教に同伴していて嘉吉の変に遭い、重傷を負う。
7月28日、嘉吉の変での傷がもとで大内持世が没する。家督を継ぐ。
10月14日、幕府が教弘に少弐教頼の討伐を命じる。
冬、幕命を奉じて筑前に渡る。
冬、少弐教頼を破り、教頼は肥前の平戸に逃れる。
冬、少弐教頼の所領である博多・太宰府などを支配下に収める。
11月、少弐教頼が平戸から対馬に渡る。
冬、少弐教頼が宗氏の援兵を得て筑前に戻る。
冬、少弐教頼を筑前から追い払う。
冬、肥前の上松浦で少弐教頼を破る。
冬、少弐教頼が対馬に走る。
冬、少弐教頼が対馬を出て九州に戻る。
この年、幕命による九州出陣に際して、守護夫役免除の特権を有する周防国衙領に陣夫100人の供出を強要し、また、国衙一円地を除く国衙領に「十分二」という課役を賦課す
る。
この年ごろ、大内分国の東部への備えとして右田岳・関
戸・山代・高水などに城を築く。

 

《皇紀2102年 嘉吉2年 後花園天皇15年 西暦1442年》23
3月、筑前の千手城を助ける。
3月、筑前の馬見で戦う。
7月、筑前の金井手山で戦う。

 

《皇紀2103年 嘉吉3年 後花園天皇16年 西暦1443年》24
4月3日、筥崎神人博多奥堂左衛門大夫に、御油役諸公事以下を先例に任せて免除する。
8月17日、周防の善福寺に寺領敷地などを安堵する。

 

《皇紀2104年 文安元年 後花園天皇17年 西暦1444年》25
2月28日、養父持世の牌を高野山成慶院に立てる。
このころ、九州に出陣する。
8月17日、筑前の春日岳で宗盛国を戦死させる。
この年、朝鮮へ遣使を送る。

 

このころ〜、筑前の治安悪化を理由に筑前の荘園を押領する。当時の筑前守護は少弐氏。

 

《皇紀2105年 文安2年 後花園天皇18年 西暦1445年》26
少弐教頼追討の幕命により、大軍を率いて筑前に侵攻す
る。
8月、筑前の立花城を落とす。
10月、大内氏が、筑前の住吉神社の再興興行につき、造営の間は土貢以下については泉福寺納所が執沙汰すべきこ
と、造営終了後は本主に下地を還補すべきことを命じ、神領の売却を今後堅く禁止する。
この年、2度、朝鮮へ遣使を送る。

 

《皇紀2106年 文安3年 後花園天皇19年 西暦1446年》27
8月27日、男子が生まれけり。のちの政弘。

 

この年、政弘が生まれる。
この年、朝鮮へ遣使を送る。

 

《皇紀2107年 文安4年 後花園天皇20年 西暦1447年》28
この年、武田・伴両氏と厳島神主の土地紛争を受けて、神主を支援するため、安芸に侵入する(大内・武田両氏の初めての武力衝突)。
この年、筑前守護に任じられる。
この年、朝鮮へ遣使を送る。

 

《皇紀2108年 文安5年 後花園天皇21年 西暦1448年》29
8月1日、大鳥居信顕に筑前の安楽寺天満宮大鳥居職を安堵する。

 

《皇紀2109年 文安6年 後花園天皇22年 西暦1449年》30
5月26日、従四位下に叙される。
7月18日、周防の興隆寺に大蔵経を寄進する。

 

《皇紀2111年 宝徳3年 後花園天皇24年 西暦1451年》32
この年、幕府の日明貿易に参加する(大内氏の船の出航は再来年)。10艘の貿易船(5号船の島津氏は中止)のうち、大内氏は7号船。これが大内氏の日明貿易への初参加となる。
この年、朝鮮へ遣使を送る。

 

《皇紀2112年 享徳元年 後花園天皇25年 西暦1452年》33
11月、師成親王(竺源恵梵)が教弘に、自写した『李花集』を授ける。
《皇紀2112年 宝徳4年/享徳元年 後花園天皇25年 西暦1452年》33
この年、朝鮮へ遣使を送る。

 

《皇紀2113年 享徳2年 後花園天皇26年 西暦1453年》34
5月、朝鮮に琳聖太子の『日本入国記』を求めけり。
この年、朝鮮が教弘に朝鮮国通信印の右符を送る。これにより朝鮮との自由な交易が可能となる。

 

《皇紀2114年 享徳3年 後花園天皇27年 西暦1454年》35
宝珠山瑞雲寺を再建し、宗派を臨済宗から曹洞宗へ改め、瑞雲山龍福寺とする。

 

《皇紀2115年 康正元年 後花園天皇28年 西暦1455年》36
12月2日、肥前の仁比山山王社に社領を安堵する。

 

《皇紀2116年 康正2年 後花園天皇29年 西暦1456年》37
4月27日、大鳥居信顕を太宰府天満宮留守職に任じる。
この年、歌僧正徹に下向を求め、教えを乞う(正徹が高齢であったため、実現せず)。

 

《皇紀2117年 康正3年 後花園天皇30年 西暦1457年》38
春、武田信賢の攻撃を受ける厳島神主の佐伯親春を援護するため、安芸に出陣する。
3月21日、右田貞俊・安富行恒ら大内勢が武田方の安芸の釈迦岳城を落とす。
5月12日、大内軍が武田方の己斐城を攻める。
5月、大内軍が武田氏の本拠である銀山(金山)城下に押し寄せる。
5月、大内軍が沼田小早川氏領の田万里に進撃する。

 

《皇紀2118年 長禄2年 後花園天皇31年 西暦1458年》39
朝鮮へ遣使を送る。

 

《皇紀2119年 長禄3年 後花園天皇32年 西暦1459年》40
2月7日、政弘とともに氷上山上宮に参詣する。
5月22日、『大内家壁書』で、夜中の大路の往来や辻相撲などを禁止する。

 

《皇紀2120年 長禄4年 後花園天皇33年 西暦1460年》41
11月25日、『大内家壁書』で、御家人が養子を取ることについて制限を加える。
《皇紀2120年 長禄4年/寛正元年 後花園天皇33年 西暦1460年》41
この年、2度、朝鮮へ遣使を送る。

 

《皇紀2121年 寛正2年 後花園天皇34年 西暦1461年》42
6月29日、『大内家壁書』で、山口から大内分国内の地へ使節の到着する日数および返書をもたらす往復の日数の限度を定める。これによれば当時、大内氏は周防・長門・豊前・筑前に加えて安芸の東西条・日高島・呉島・蒲刈島・能美島、石見の邇摩郡、肥前の神崎郡を支配下に収めていたことが分かる。
7月8日、『大内家壁書』で盗品についての法を定める。
10月、長門の大寧寺に竹居正猷を訪問する。
10月、高嶺長棟(高岳長棟,上杉憲実)と道話をする。
この年、幕府が大内氏の安芸支配の拠点である東西条を武田信賢に与える。
この年、教弘の招きで雪舟が山口を訪れる。
この年ごろ、山口に築山館を建てる。

 

《皇紀2122年 寛正3年 後花園天皇35年 西暦1462年》43
8月晦日、『大内家壁書』で長門三隅の平民が飯田貞家の僕を殺害したことについて、その平民と妻を流罪に処し、大内領国内においてみだりに人を殺すことを禁止する。
10月25日(11月25日とも)、『大内家壁書』で分国から納められる麻布などの寸尺についての決まりを定める。
この年、2度、朝鮮へ遣使を送る。

 

《皇紀2123年 寛正4年 後花園天皇36年 西暦1463年》44
氷上山興隆寺に三重の塔婆を建立する。

 

《皇紀2124年 寛正5年 後花園天皇37年 西暦1464年》45
3月28日、正広(正徹の弟子)を招いて和歌会を行う。
春ごろ、政弘・正広とともに高洲の松原に出かけ、和歌を詠む。
4月5日、正広らとともに和歌会を行う。
4月15日、教弘の邸で正広らとともに和歌会を行う。
6月末、正広らとともに和歌会を行う。
《皇紀2124年 寛正5年 後土御門天皇元年 西暦1464年》45
8月10日、相国寺に鐘を寄進する。
11月、将軍義政が教弘に承勲西堂を派遣し、河野通春を討つよう命じる。細川勝元が私使として恵鳳蔵主を承勲に添える。
冬、教弘の所望により恵鳳蔵主が亭下にある飛松の記を作る。

 

《皇紀2125年 寛正6年 後土御門天皇2年 西暦1465年》46
安芸に出兵し、自らは伊予に進軍する。
6月、大内軍が安芸の府中で武田勢と戦う。
伊予に渡海し、幕命に背いて河野通春を助け、讃岐の細川勝元の軍勢と戦う。
陣中で病にかかる。
この年、朝鮮へ遣使を送る。
9月3日、伊予の興居島の陣中で病死する(享年46)。法名は闢雲寺殿大基教弘大禅定門。墓所は小鯖の闢雲寺(現在の泰雲寺)。

 

9月3日、興居島にて没しけり。

 

 

《皇紀2146年 文明18年 後土御門天皇23年 西暦1486年》
6月5日、従三位を追贈される。

 

《皇紀2147年 文明19年 後土御門天皇24年 西暦1487年》
3月、宣旨で教弘を祀る築山社に築山大明神の神号が授けられる。

〜〜〜年表外の事績〜〜〜

『新撰菟玖波集』に教弘の連歌が7句入る。

 

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