大内晴持(おおうちはるもち)
名字と諱
一条恒持⇒大内晴持(⇒大内義房)
諱以外
太郎 新介
氏(本姓)
藤原⇒多々良
姓
⇒朝臣
位階
従五位下 従五位上 正五位下
官職
周防権介 左兵衛佐 左衛門佐
本拠
土佐中村⇒山口
》の右の数字は数え年
《皇紀2184年 大永4年 後柏原天皇25年 西暦1524年》1
生まれけり。
一条房冬の次男として生まれる。
《皇紀2186年 大永6年 後柏原天皇27年/後奈良天皇元年 西暦1526年》3
大内義隆の養子として迎えられる。
《皇紀2198年 天文7年 後奈良天皇13年 西暦1538年》15
2月25日、元服し、恒持と名乗る。
3月11日〜4月2日、山口に「土佐之公家」が滞在する。ここでの「土佐之公家」とは、元服の祝儀を祝って、土佐中村からやってきた祖父房家または父房冬か、土佐一条氏から派遣された使節であろうとされる。
12月3日、従五位下に叙される。
《皇紀2199年 天文8年 後奈良天皇14年 西暦1539年》16
6月15日、従五位上周防権介に叙任され、新介と称する。
この年、将軍義晴から偏諱を受けて晴持と改名する。
《皇紀2200年 天文9年 後奈良天皇15年 西暦1540年》17
1月9日、養父義隆とともに防府に出陣する。
9月5日、左兵衛佐に任じられる。
この年、養父義隆とともに岩国に出陣する。
《皇紀2201年 天文10年 後奈良天皇16年 西暦1541年》18
3月、安芸に入る。
5月5日、厳島で部将らが催した流鏑馬を見物する。
7月23日、左衛門佐に任じられる。
8月19日、養父義隆とともに銀山城(金山城)で明から帰国した策彦周良と対面し、復命を受ける。
《皇紀2202年 天文11年 後奈良天皇17年 西暦1542年》19
1月5日、正五位下に叙される。
1月、父義隆に従って出雲へ向けて出陣する。
冬、出雲に入る。
《皇紀2203年 天文12年 後奈良天皇18年 西暦1543年》20
5月7日、乗船するも船が転覆し、溺死しけり。
5月7日、養父義隆とともに経羅木山(京羅木山)の陣から撤退する。
5月7日、尼子方の軍に追われながら、揖屋浦から冷泉隆豊の遣わした小船に乗って本船へ向かうが、小船が転覆して他の将士とともに溺死する(享年20)。法名は法寿寺殿俊英宗傑大禅定門。牌所は足摺岬金剛福寺。
島根県八束郡東出雲町揖屋の大内神社は晴持の霊を祀ったものとされる。
