名字と諱
大内政弘
諱以外
亀童丸 太郎 新介 大内介
氏(本姓)
多々良
姓
朝臣
位階
従五位下 正五位下 従四位下 従四位上 贈従三位
官職
周防介 左京大夫
室町幕府での役職
周防守護 長門守護 豊前守護 筑前守護 石見守護 相伴衆
本拠
築山館
》の右の数字は数え年
《皇紀2106年 文安3年 後花園天皇19年 西暦1446年》1
8月27日、生まれけり。
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《皇紀2119年 長禄3年 後花園天皇32年 西暦1459年》13
2月7日、父教弘とともに氷上山上宮に参詣する。
15
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《皇紀2124年 寛正5年 後土御門天皇元年 西暦1464年》19
春ごろ、父教弘・歌人正広とともに高洲の松原に出かけ、和歌を詠む。
4月10日、政弘の家で正広らとともに和歌会を行う。
《皇紀2125年 寛正6年 後土御門天皇2年 西暦1465年》20
9月3日、父教弘が没しけり。家督を継ぎけり。
9月上旬、大内勢が沼田小早川氏領の能良・乃美で小早川・毛利勢と戦う。
父教弘の意志を継いで、河野通春を助けて伊予に転戦し、新開之実らを討ち取るなどして細川勢を駆逐し、連戦連勝する。
10月、細川勝元の要請により、幕府が大内政弘追討令を発する。
この年、寛正6年度の日明貿易に参加する。1号船幕府・2号船細川氏・3号船大内氏という編成で、船および貿易品の調達などはすべて政弘に一任される(この船団は翌年の春に博多を出航する)。
《皇紀2126年 寛正7年/文正元年 後土御門天皇3年 西暦1466年》21
2月、安芸湾頭へ来襲して武田方の白井氏を攻める。
《皇紀2127年 応仁元年 後土御門天皇4年 西暦1467年》22
4月2日、『大内家壁書』で妙見山での猟を禁止する。
5月10日、西軍方として大軍を率いて山口を出陣する。
5月20日、『大内家壁書』で周防の鯖川の渡銭を定める。
6月2日、周防の野上に着く。
6月3日、柳井に着く。
6月13日、乗船し、屋代の嶋久賀に着く。
6月13日、長門二宮の忌宮神社に戦勝を祈願する。
7月8日、備中の下津井で戦う。
7月20日、兵庫港に上陸する。
8月3日、後続部隊との結集を終え、兵庫を発し、陸路から京を目指す。
8月3日、摂津の本庄山で細川軍を破る。
8月4日、越水(越清水・小清水)城を落とす。
8月10日、摂津尼崎の難波水堂で細川勢と戦う。大内軍が尼崎の聚楽を焼き払って勝利する。
8月、猪取野(井鳥野)で秋庭元明を破る。
{8月17日}、板見(伊丹)で東軍と戦う。
8月、池田城に入る。
8月20日、淀・山崎の線に達する。
8月23日、入京して東寺に陣を置く。
8月23日、政弘の入京を受けて西軍が東軍側陣所を攻撃する。
8月24日、北野に陣を移す。
8月29日、大内勢が加茂で東軍と戦う。
9月1日、畠山義就らとともに武田元綱を三宝院に攻め、三宝院を焼く。
9月5日、船岡山に陣を構える。
9月5日、花坊で東軍と戦う。
9月、船岡山を出て洛北を東進し、鴨川の近くまで進出する。
9月13日、畠山義就とともに内裏を攻めて占領する。
9月18日〜10月2日、畠山義就らとともに東岩倉に陣取る細川・赤松の別働隊を攻める。
10月3日、畠山義就・畠山義忠・土岐成頼・六角高頼・一色義直らとともに細川勝之ら東軍が陣取る相国寺を攻め
る。
10月4日、北小路室町で東軍と戦う。
10月4日、相国寺で東軍と戦う。
10月19日、相国寺に陣を置く。
12月7日、船岡山の陣が東軍により焼かれる。
12月26日、大内勢が摂津の中島および宮原で東軍と戦う。
この年、少弐教頼・宗盛直が東軍に応じて筑前に侵入し、博多・太宰府の間で大内勢と戦い、敗死する。
《皇紀2128年 応仁2年 後土御門天皇5年 西暦1468年》23
1月、大内勢が摂津の諸郡を攻略する。
3月17日、武田信賢が北小路烏丸の政弘の陣を攻めるが勝敗はつかず。
3月21日、山名・大内・畠山・斯波勢など西軍の兵が骨皮道賢を稲荷山に攻めて、討ち取る。稲荷社・文殊堂・一重塔・本地堂・御影堂などが焼ける。
4月16日、京都で山名・大内勢などが東軍を攻めるが、敗れる。
4月25日、鹿苑院の南東に巨大な櫓を建てる。
5月8日、赤松勢と戦う。
6月、安富備後入道らを摂津へ派遣する。
6月16日、大内勢が伊丹城を攻める。
7月25日、大内勢が摂津の倉橋に拠る東軍を攻めて破る。
9月3日、東軍の内藤元貞が丹波の国人を率いて丹波から嵯峨に攻め込む。
9月上旬、嵯峨へ向かい、斯波義廉・畠山義就らとともに内藤元貞に対して防戦する。
9月9日、大内勢が摂津で東軍に敗れる。
10月23日、大内勢が興福寺領兵庫関や神供領などを違乱していることについて興福寺の学侶が集まって会合する。
10月28日、幕府が相良為続・島津季久など九州の諸将に、
政弘の分国や政弘に味方する者の領地を攻め取るよう命じる。
閏10月15日、如法寺縫殿允の代理の者に、豊前の求菩提山領である斗部鳥居畑での違乱を止めるよう命じる。
閏10月19日、京都の東福寺に至る。
11月23日(24日とも)、足利義視が西軍に迎え入れられて斯波義廉の邸に入る。
[11月]、山名是豊や少弐氏が大内氏の領国を攻める。
12月29日、大内勢が摂津の真下で東軍と戦う。
《皇紀2129年 応仁3年 後土御門天皇6年 西暦1469年》24
3月4日、西軍において左京大夫を称する(東軍の文書では依然として大内新介とある)。
《皇紀2129年 文明元年 後土御門天皇6年 西暦1469年》24
5月21日、大内勢が大和の鳥見田原に進出する。
[5月]、少弐頼忠・大友親繁らが細川勝元に応じて挙兵して北九州の大内領を攻め、頼忠が太宰府に入る。
7月12日、将軍義政が豊前・筑前・肥前の諸城を攻略した大友親繁に、周防・長門を攻略するよう命じる。
〜7月中旬、大内勢が摂津の城のほとんどを落とす。
7月中旬、大内勢が池田充政を池田城に攻める。
7月26日、大内勢が池田城を攻め落とす(この少し後に池田城は再び東軍に奪回され、大内勢は再び池田城を攻めることとなる)。
8月10日、大内勢が摂津の河久良で東軍と戦う。
9月13日、大内勢が池田で東軍と戦う。
9月17日、大内勢が池田で東軍と戦う。
10月16日、大内勢(問田弘綱)が摂津の兵庫で東軍山名是豊らに敗れる。
10月22日、大内勢が池田城の攻囲を解く。
12月19日、仁保弘有が摂津の神崎城で山名是豊らを迎え撃ち、破る。
《皇紀2129年 応仁3年/文明元年 後土御門天皇6年 西暦1469年》24
この年、寛正6年度の遣明船が帰航する。遣明船の帰途に大内氏が成化の新勘合を奪う。
この年、周防に石城神社を造営する。
この年から翌年にかけて、赤間関夫30余人を周防国衙領から徴用する。
このころ、京都出陣の戦費にあてるため、国衙領の東大寺
公用米の借用を公認する。
《皇紀2130年 文明2年 後土御門天皇7年 西暦1470年》25
[春]、伯父道頓が東軍に応じて赤間関に挙兵する(挙兵の時期について諸説あり)。仁保盛安もこれに応じる。
仁保盛安の子である仁保十郎・七郎が京都の大内軍の陣を離れ、兵を率いて東軍の陣に加わる。
5月19日、山名政豊・仁保弘有らが東軍の勧めに応じて摂津の下島を去る。
5月、増援軍(杉秀明・椙杜弘康ら)を摂津に派遣する。
5月下旬、増援軍が摂津の中島で戦う。
5月25日、増援軍が福島城を落とす。
6月25日、東軍に降ろうとした杉七郎を殺害し、軍規を粛正する。
7月19日、東軍を勧修寺に攻めて、勧修寺を焼く。
7月20日、醍醐・山科の東軍を攻めて敗走させる。醍醐寺の堂舎の多くが消失する。
7月23日、山城の八幡に入る。
8月20日、大内勢が摂津で東軍を破る。
《皇紀2131年 文明3年 後土御門天皇8年 西暦1471年》26
2月25日、豊前の求菩提山に、寺領30町を還付する。
4月15日、周防の妙喜寺に周防・長門・豊前などの地を寄進する。
4月21日、大内勢が東軍を山城の木津城に攻め、吐師・相楽・上狛野・地蔵堂などを焼く。
6月12日、大内勢が山城の椿井城を攻め落とす。
6月12日、大内勢が摂津の敵城数ヵ所を落とす。
6月21日、大内勢が河内に入り、東軍と戦う。
9月24日、大内勢が摂津の中島に着陣する。
《皇紀2132年 文明4年 後土御門天皇9年 西暦1472年》27
4月24日、大内勢が東軍を摂津の天王寺に攻める。
10月16日、山城相楽郡の大北城の大内勢が筒井順永の攻撃を受け、杉十郎が自害し、城は落とされる。御厨子城将の杉右京が大北城の救援に駆け付け、筒井順永を追い払う。
《皇紀2133年 文明5年 後土御門天皇10年 西暦1473年》28
3月18日、山名宗全が没する。宗全が没すると政弘が西軍の総帥と目される。
5月11日、細川勝元が没する。
8月26日、足利義視を自邸に迎える。
10月23日、摂津に出兵し、細川方の領内に放火させる。
12月7日、椙杜弘康が摂津の尼崎・大物の両城を落とす。
[12月]、将軍義政が嫡子義尚に将軍職を譲る。
この年、朝鮮へ遣使を送る。
《皇紀2134年 文明6年 後土御門天皇11年 西暦1474年》29
1月11日、山城の寺社にこれまで占領してきた地を還付する。
4月3日、山名政豊と細川聡明丸(のちの政元)の間に停戦協定が成る。
4月15日、山名政豊が東軍の陣に加わる。これにより西軍の諸将が政弘に洛中の警衛を依頼する。
4月19日ごろ、大内政弘・畠山義就が東陣を攻めるため、斎藤妙椿に援助を求める。
6月23日、政弘の部下と西軍の部卒が戦う。
6月27日、古市胤栄に援軍を求める。
7月7日、六角油小路に築いていた砦が完成する。
7月13日、東軍の兵が土岐成頼邸・妙行寺・法華堂などに放火する。成頼・政弘の部下がこれを防ぐ。
7月17日、政弘の求めにより古市勢が入京する。
7月18日、政弘の求めにより越智勢が入京する。
7月26日、土岐成頼・畠山義就らとともに北野千本の民家を焼き、山名政豊と戦って敗れる。
9月20日、西国での乱を心配して帰国を図り、古市胤栄・越智家栄の軍勢を帰国させ、日野勝光を仲介として幕府に降伏を申し入れる。
9月26日、政弘の部下が地子銭をめぐって畠山義就の部下と戦う。
11月13日、従四位下左京大夫に叙任される。
この年、朝鮮へ遣使を送る。
《皇紀2135年 文明7年 後土御門天皇12年 西暦1475年》30
3月4日、京都六条八幡宮の境内や同社領中で軍勢や一般人が竹木採取・濫妨狼藉することを禁止する。
4月10日、『大内家壁書』で周防・長門の諸社寺に、使いを京都へ送ってお礼事をするのを禁止し、専ら祈祷の精誠に励むよう求める。
4月20日、大乗院門跡尋尊が政弘に、春日社領である山城の古河荘を返付するよう求める。
5月8日、大内勢が山城の木津に陣を置く。
5月14,15日、大内勢が山城の木津で東軍と戦う。
7月7日、昨暁に縁起のよい夢を見たので長門二宮の忌宮神社に打刀を奉納する。
10月23日、毛利豊元に、安芸の東西条の地下人による徳政の強行を抑えるよう命じる。
11月13日、氷上山興隆寺に直山の地・造営料を寄進し、寺法として『氷上山興隆寺法度条々』を定める。
《皇紀2136年 文明8年 後土御門天皇13年 西暦1476年》31
1月1日、石清水八幡宮に馬1疋を寄進する。
1月1日、周防の興隆寺に馬1疋を寄進する。
3月12日、能阿弥が政弘に、自らの著で足利義政左右の書画骨董を解説した『君台観左右帳記』を贈る。
7月、一条兼良が政弘に、その著『伊勢物語愚見抄』を与える。
9月14日、大御所義政が政弘に御内書で、東西両軍の和平のために尽力するよう命じる。
12月20日、東寺が政弘に、歳末巻数を贈る。
12月20日、国許から援軍が到着しけり。
この年、日明貿易に参加できず。
《皇紀2137年 文明9年 後土御門天皇14年 西暦1477年》32
1月下旬、山城の狛陣所で杉重道が興行した百韻連歌に宗祇らとともに参加する。
2月15日、京にて男子が生まれけり。のちの義興。
6月2日、細川聡明丸(のちの政元)の兵が摂津の山路荘に入る。大内勢はこれと戦うが、敗れて中島に走る。
9月22日、畠山義就が京都の陣を撤収する。
9月下旬ごろ、幕府(東軍)に帰順する。
10月上旬ころ、従四位下左京大夫に再び叙任される。
10月3日、将軍義尚より周防・長門・豊前・筑前の守護職と石見国邇摩郡・安芸国東西条ならびに本新当地行の地所々などを安堵される。
10月17日、東大寺領に兵糧米300貫を課す。
11月11日、全軍をまとめて周防へ向けて京を出発する(政弘の帰国により応仁・文明の乱は終結する)。
12月23日、周防国山口に到着しけり。
この年、朝鮮へ遣使を送る。
《皇紀2138年 文明10年 後土御門天皇15年 西暦1478年》33
2月13日、興隆寺に、上宮所々の造営のための料所として長門の有保別府公文名30石の地を寄進し、段銭など諸課役を免除する。
3月20日、田原親盛の兵糧料所であった長門の赤間関阿弥陀寺領半済分を同寺に還付する。
[春]、東西の市を立てる。
[春]、伯父道頓の反乱に加担していた吉見信頼が政弘に降る。
4月15日、『大内家壁書』で周防の今八幡社の修造・社田課役などの条規を定める。
6月20日、『大内家壁書』で安芸西条の鏡城(鏡山城)の条規を定める。
[6月]、政弘が遣わしける船が若狭国小浜津に到着しけり。積み荷は献金や唐物で、献金は足利義政へ430貫文、日野冨子へ340貫文、将軍義尚へ300貫文、蜷川親元へ170貫文、南殿へ50貫文、飯尾元連へ100貫文、権大納言御局へ70貫文なりけり。
7月13日、周防の興隆寺新十坊に、坊舎建立にあてるため、同国の三井村の内50石・高水荘の内33石・与田保の内17石などの地を寄進し、諸役を免除する。
[7月]、少弐政資追討のため、大内勢の先鋒として陶弘護らを派遣する。
8月9日、大御所義政が政弘に鑵子・風炉を与える。
8月10日、一条兼良に3千疋を贈り、亡父教弘の従三位追贈を後土御門天皇へ働きかけるよう依頼する。
8月27日、九州へ向けて渡海する。
9月13日、大内勢が鷲岳城を攻める。
9月、豊前・筑前を攻める。
9月25日、陶弘護が太宰府で少弐方に大勝する。これによって少弐勢は退散する。
9月25日、祈祷の功を賞して、北野社僧の宝成院明充を北野社領である筑前の遍智院分の代官職に任じる。
9月26日、杉重隆が豊後の山国狩宿城を降伏させる。
9月下旬〜、博多に滞在して九州の経営にあたる。博多での政弘の居所は聖福寺であったとされる。
このころ、筑前・豊前などの各寺社が少弐政資から横領された所領の回復のため、政弘に接近を図る。政弘はこれらの寺社を保護して支配下におき、民政の一翼を担わせる。(各寺社は筑前で太宰府観世音寺・崇福寺・香椎宮・住吉宮・筥崎宮・宇美宮・志賀島宮・碓井永泉寺・医王院・妙楽寺・大道寺など、豊前では宇佐宮・英彦山宮・国分寺・宝寿寺など、肥前では脊振山坊・仁比山寺、肥後では阿蘇宮など)
10月1日、筑前の筥崎宮に参詣する。
10月1日、朔日の祝を行う。
10月3日、政弘の命で鷲頭弘賢が周防の妙見山下宮を修造する。
10月3日、問田弘衡らに筑前の花尾城を囲ませる。
10月4日、筑前の観世音寺の勧進奉加帳に署判する。
10月4日、筑前の宇美八幡宮の前社務房精の孫である豊松を社務に任じる。
10月4日、筑前の諸将が政弘に、周防・長門の諸寺社領で筑前内のものを半済とすることを請い、政弘はこれを返付させる。
10月4日、陶弘護による防長寺社領半済延長の提案を却下しけり。
10月5日、筑前の崇福寺方丈の勧進奉加帳に署判する。
10月6日、『大内家壁書』で、文明元年以来長門へ渡って米・銭を借りた筑前の人々に徳政令を発する。
10月7日、筑前の高鳥居城の塀・矢倉の普請役を賦課するため、部下の将士に給地を注進させる。
10月8日、筑前の堅糟薬師に参詣し、馬1疋を寄進する。
10月9日、秋月弘種が政弘に、二条為世筆の『古今和歌集』1部10巻を贈る。
10月12日、宗貞国に、少弐政資の残党が対馬に入った場合は、これを討つよう命じる。
10月13日、周防妙見社領で、筑前内のものについて段銭夫役を免除する。
10月13日、筑前で暁天夢想の百韻連歌を興行する。
10月16日、尾和武親らを派遣して、筑前妙楽寺を襲う暴徒を鎮圧する。
{10月中旬ごろ}、筑前の筥崎・博多に、幕府への礼物などの費用としてそれぞれ千貫文ずつ課す。
10月18日、周防興隆寺など諸社寺に、災厄のおはらいをするよう命じる。
10月19日、豊前の彦山に、その社領である同国の宝珠山の地8町・益田の地8町などを安堵する。
10月23日、筑前守護代の辞職を求める陶弘護の旅館(承天寺)へ行き、思いとどまるよう説得し、受け入れられる。
10月21日、政弘の命で杉武勝が政弘に、筑城・上毛・下毛・宇佐の豊前4郡の諸闕所地を注進する。残りの3郡につついては先日に注進されている。
10月23日、吉見・益田氏などの旅館を訪ね、太刀などを与へて、今回の出陣をねぎらう。
10月23日、渋川万寿丸が政弘に会うため、博多に入る。
10月24日、幕府から、政弘に賀茂社領である周防の伊保荘に段銭を課すよう命じる奉書が届く。
10月25日、益田兼堯の宿所で今春九郎直氏による音曲の会が催され、これを観賞する。
10月26日、同族の通秋と戦っている河野通春からの救援要請により、呉・能美・蒲苅といった三島の兵に伊予へ渡って通春を助けるよう命じる。
10月下旬、筑前の花尾城の麻生家延が政弘に降る。
[10月]、少弐氏に対する備えとして深野重親に岩屋在番を命じる。
11月15日、筑前の筥崎宮に、社領である同国の瑞籬免を直務するよう命じる。
11月25日、筑前筥崎八幡宮の神人御油役を勤仕している博多奥堂右馬大夫に、諸公事役以下を免除する。
12月7日、博多を出て帰国の途につく。
12月中旬ころ、馬を大御所義政に献上する。
《皇紀2139年 文明11年 後土御門天皇16年 西暦1479年》34
2月13日、周防の興隆寺に、石見の高野寺を安堵する。
4月13日、興隆寺での法華経千部読誦のため、同寺に周防の波野郷の内26石8斗余の地を寄進する。
5月6日、長門の浄名寺の住持に、浄名寺領・勝鬘寺領・宝園寺領を安堵する。
5月25日、幕府が政弘に、紀伊の高野山金剛三昧院領である筑前粥田荘半済分を同院に返付するよう命じる。
6月、亡父教弘の従三位追贈のため、文蔵主を京都に派遣する。
7月4日、政弘の推挙により周防の興隆寺別当である権少僧都乗海が法印に叙され、周防の清水寺別当律師朝恕と大内懸八幡宮別当権律師定栄が権少僧都に任じられる。
8月1日、将軍義尚が政弘に剣一腰を与える。
9月29日、一条兼良が政弘の亡父教弘に従三位が贈られるよう執奏するが、幕府から執奏するようにとの答えを得
る。
閏9月8日、日野富子が大御所義政に、政弘の亡父教弘の従三位追贈のことを請うが、義政は武家には三位の先例がないと答える。
閏9月13日、周防の興隆寺に筑前の別府の地を還付する。
閏9月20日、将軍義尚が内藤弘矩らに御内書で、政弘の隠居を思い止めさせるよう命じる。
10月13日、防府松崎天満宮に参詣する。白蛇を見る。
10月15日、昔から松崎天満宮では白蛇を崇敬していたので、将軍義尚から8月1日に与えられた剣を同宮に奉納する。
11月8日、周防の乗福寺宝洞庵に庵領を安堵する。
11月13日、周防の興隆寺本堂の上棟式を行う。
12月8日、周防一宮の玉祖神社が政弘に、神用米在所の面積と収穫量を注進する。
12月20日、円意に、長門の正法寺の別当職と寺領を安堵する。
12月27日、勝光に、長門の安養寺の住持職を安堵する。
この年、朝鮮へ遣使を送る。
《皇紀2140年 文明12年 後土御門天皇17年 西暦1480年》35
2月16日、豊前の楞厳寺に、同国今吉名・立石香丸名などの地を安堵する。
6月上旬、政弘の招きにより宗祇が山口に下着する。
6月、築山館での政弘の連歌会に宗祇が参加する。
8月、山口に滞在中の三条公敦に『伊勢物語愚見抄』を貸す。
9月中旬、三条公敦に『花鳥余情』を貸す。
11月20日、一色義直が政弘に、一色氏の所領である豊前の天生田荘から年貢を送ってこない安東俊国に督促するよう請う。
12月6日、長門一宮の住吉神社・二宮の忌宮神社・亀山八幡宮に参詣する。
12月13日、安東俊国に、天生田荘からの年貢を京都へ送るよう命じる。
この年、相伴衆に列する。
《皇紀2141年 文明13年 後土御門天皇18年 西暦1481年》36
1月、政弘の求めにより三条公敦が頓阿の『古今集註』を書写する。
3月20日、幕府が政弘に、年貢を滞納している石清水八幡宮領である長門の大福荘・吉見郷の代官に督促するよう命じる。
7月20日、長門一宮の住吉神社に伝来する文書を一見し、これを7冊に写し、外題および証判を押して大宮司賀田貞国に与える。
8月15日、長門二宮の忌宮神社に、同社の造営料にあてるため、社領の段銭を免除する。
9月3日、父教弘の17回忌に『金剛般若経』を刊行し、その冥福を祈る。
9月13日、飛鳥井雅康が政弘からの依頼による『源氏物
語』青表紙本54帖の書写を終える。
10月22日、将軍義尚が土岐成頼・大内政弘に余饌を分け与える。
12月26日、『大内家壁書』で椀飯や饗膳のことについて定める。
この年、政弘の依頼を受けて伊勢貞宗が武田国信・元綱兄弟を仲介したことにより、武田兄弟が和解する。
《皇紀2142年 文明14年 後土御門天皇19年 西暦1482年》37
春、石見の小笠原元長が山口に来て政弘に謁見する。
5月、石見の吉見信頼が山口に来て政弘に謁見する。
5月27日、政弘が諸将を招いて殿中において開いた酒宴の席で、吉見信頼が陶弘護を刺殺する。信頼も内藤弘矩に殺害される。
6月頃、石見国吉賀郡津和野村の吉見氏領に侵攻しけり。
12月17日以前、吉見領から撤兵しけり。
《皇紀2143年 文明15年 後土御門天皇20年 西暦1483年》38
3月9日、『大内家壁書』で、庶人が参詣のために上洛する際の餞送・土産を禁止する。
3月26日、周防の国分寺に、旧来通り諸役を免除する。
[春]、将軍義尚が勅撰第二十二代集を目的とした『打聞
集』の編纂を開始する。後日、政弘も『打聞集』への歌を召される。
5月13日、筑前の筥崎松の伐採を禁止する。
5月18日、将軍義尚に、少弐政資討伐の命令のお礼として太刀1腰・金・鳥目5千疋を進上する。
このころ、少弐政資が反旗を翻したので、討伐の兵を九州へ派遣する。
6月、猿楽座宝生大夫が大内舘に滞在して興行と指導を行
う。
8月1日、『大内家壁書』で、九州へ出兵する際の軍勢を乗せる船の提供を赤間関に義務づける。
このころ、赤間関に出陣する。
このころ、先鋒を九州へ派遣する。
8月24日、長門の阿弥陀寺に禁制を掲げる。
9月16日、長門二宮の忌宮社領に諸課役を免除する。
9月16日、長門一宮の住吉神社・二宮の忌宮神社・亀山八幡宮(赤間関鎮坐八幡宮)に参詣する。
9月17日、長門二宮の忌宮神社に参籠する。
長門一宮の住吉神社・二宮の忌宮神社・亀山八幡宮に社領を寄進する。
10月16日、周防の国分寺に禁制を掲げる。
10月25日、幕府が渋川万寿丸に、政弘と協力して少弐政資を討つよう命じる。
12月15日、『大内家壁書』で、部下の争論によって没収された所領を、新恩として望むことを禁止する。
このころ、軍を撤退させて山口に戻る。
この年、朝鮮へ遣使を送る。
この年の日明貿易は配船をめぐって細川氏と対立し、参加できず。
《皇紀2144年 文明16年 後土御門天皇21年 西暦1484年》39
2月22日、周防の長宝寺に寺領を安堵する。
4月26日、周防の平蓮寺に平井・染依・永谷1町4段の地を安堵する。
5月、『大内家壁書』で、領内における金銀量制について京都のものと同じとし、これとたがえることを禁止する。
7月、三条公敦が、政弘の所望により頓阿の『井蛙抄雑
談』の一部である『雑談記』を書写する。
12月1日、高山道藤に長門の日置荘八幡宮大宮司職を安堵する。
この年、陶弘仲を筑前に派遣して、少弐勢と戦わせる。
《皇紀2145年 文明17年 後土御門天皇22年 西暦1485年》40
4月15日、撰銭などの禁令を定める。
4月20日、塗物代などについて掟を定める。
5月19日、『大内家壁書』で、亀童丸(のちの義興)の乗馬供衆について定める。
[夏]、政弘の再三の所望により、宗祇が門司宗忍(恩とも)
を通して政弘に、自ら編纂して注を加えた『老葉』を贈
る。
7月16日、周防の氷上山興隆寺に山門を建立する。
[9月]、前年消失した周防の阿弥陀寺を再建する。
10月21日、大御所義政・将軍義尚が土岐成頼・大内政弘・六角高頼に余饌を分け与える。
11月5日、分国内の諸役人の掟を定める。
[11月]、奉行の会合次第を定める。
[11月]、奉行所出仕の人数を定める。
12月26日、『大内家壁書』で家臣の休暇日数を定める。
この年、朝鮮へ遣使を送り、大蔵経を求める。
《皇紀2146年 文明18年 後土御門天皇23年 西暦1486年》41
2月13日、亀童丸(のちの義興)とともに周防の妙見社下宮の遷宮に臨む。
2月30日、安芸国内に雑説があるので、久芳永清に西条の鏡城(鏡山城)に在番するよう命じる。
3月23日、周防の善福寺に豊前の仲津郡の内12町4反20代の地を造営料所として寄進する。
3月29日、評定式日における奉行衆参仕についての掟を定める。
4月1日、『大内家壁書』で分国内の相伴衆著座の数を定める。
4月29日、分国内の禁制5条を定める。
5月26日、『大内家壁書』で分国内の寺領の訴訟についてその中途に貢租を押置することなどを禁止する。
6月5日、亡父教弘が従三位を贈られる。
6月9日、門役闕番についての掟を定める。
[6月]、『大内家壁書』で家臣が勝手に官称を使用することを禁止する。
7月6日、奉書案文についての掟を定める。
7月10日、奉書や他家からの使いなどの披露についての掟を定める。
8月2日、奉行衆の退出時についての掟を定める。
8月16日、政弘の要請により周防の興隆寺が勅額を賜る。
[8月]、亡父教弘に従三位が贈られたことを築山の廟に報告する。
9月4日、『大内家壁書』で、家臣に大内氏歴代当主の忌日にその当主の菩提寺に参詣するよう命じる。
10月27日、『大内譜牒』(『氷上山伝記』)を氷上山の寺庫に収め、勅額を山門に掲げる。これにより、氷上山興隆寺は勅願寺となる。
10月27日、『大内多々良氏譜牒』を自著し土御門天皇に進覧しけり。
《皇紀2147年 文明19年 後土御門天皇24年 西暦1487年》42
2月22日、『大内家壁書』で山口における闕所家屋の制を定める。
3月3日、三条西実隆が、書写した『長秋詠藻』を政弘に贈ろうとして、勘解由小路在重に託す。
3月29日、『大内家壁書』で家臣が諸商買船諸公事免許の申次をすることを禁止する。
3月30日、『大内家壁書』で、毎月晦日に父教弘の祠である築山社を掃除するよう定める。
[3月]、宣旨で亡父教弘を祀る築山社に築山大明神の神号が授けられる。
4月3日、亡父教弘に大明神号の宣旨が下されたことを築山の廟に報告する。
4月20日、『大内家壁書』で赤間関と小倉・門司・赤坂間の船賃を定める。
4月20日、『大内家壁書』で夜中の路次往来に関する禁制を定める。
4月20日、『大内家壁書』で、従者の下人が輿前で高談することを禁止する。
《皇紀2147年 文明19年/長享元年 後土御門天皇24年 西暦1487年》42
{7月中旬}、息女武子の懇望により『伊勢物語』(持孝筆
本)を与える。
《皇紀2147年 長享元年 後土御門天皇24年 西暦1487年》42
7月20日、『大内家壁書』で諸士の郎従が大内家の家人となることを禁止する。
9月、『大内家壁書』で、領内において鼈亀・蛇を鷹餌とすることを禁止する。
10月16日、妙心寺の再興のために1万疋を奉加する。
10月22日、将軍義熙の六角高頼討伐に参加しける政弘の先遣部隊が上洛しけり。
11月10日、大内氏御家人に山口に参上するよう総触をかけけり。
閏11月25日、『大内家壁書』で、ぜいたくを禁止し、上洛のために武具の準備に専念するよう命じる。
12月27日、従四位上に叙される。
[12月]、支障(病気とされる)があって上洛できず、将軍義尚の六角高頼討伐に代理として問田弘胤を派遣する。
《皇紀2147年 文明19年/長享元年 後土御門天皇24年 西暦1487年》42
この年、朝鮮へ遣使として鉄牛を送り、大蔵経を求める。
《皇紀2148年 長享2年 後土御門天皇25年 西暦1488年》43
正月20日、上洛用の兵船につき規定を定めけり。
8月3日、左京大夫に還任される。
この年、将軍義熙(義尚改め)の六角高頼討伐を支援するため、内藤弘矩を近江へ向けて出陣させる。
《皇紀2149年 長享3年 後土御門天皇26年 西暦1489年》44
1月29日、政弘の献上した禁裏修理費により、東方の壁が修理される。
3月、飛鳥井政親が政弘に『蹴鞠条々大概』を贈る。
3月26日、将軍義熙が薨去しけり。政弘の上洛は見送られけり。
4月26日、先月26日に将軍義熙が没したので、『大内家壁書』で常赦(恩赦の一種)を行い、翌年3月26日までの間の殺生を禁止する。ただし、商売目的の釣漁狩猟は禁止せず。
5月、『大内家壁書』で盗品の売買については所在の大内家臣の処置を仰ぐよう命じる。
7月10日、大内殿中で毎月催された和歌会や連歌会の懐紙を、奉行や筆者役の当番が集めておいて、積もり積もって数多くなったとき、大内文庫の番衆に渡すよう定める。
7月16日、『大内家壁書』で諸人の長刀帯用を禁止する。
《皇紀2149年 長享3年/延徳元年 後土御門天皇26年 西暦1489年》44
8月、『大内家壁書』で記録所への出入についての規式を定める。
8月、『大内家壁書』で厩出仕についての規式を定める。
《皇紀2149年 延徳元年 後土御門天皇26年 西暦1489年》44
9月27日、かねてから政弘が三条西実隆に依頼していた勝仁親王の名号の御染筆が、親王から実隆の手に渡る。
12月19日、『大内家壁書』で諸人の殿中見物について禁制を定める。
《皇紀2149年 長享3年/延徳元年 後土御門天皇26年 西暦1489年》44
この年、宗祇が政弘の請いにより『伊勢物語』を講釈す
る。これが『伊勢物語山口抄』である。
この年、宗祇に『十問最秘抄』の奥書を所望する。
《皇紀2150年 延徳2年 後土御門天皇27年 西暦1490年》45
6月19日、山口下向中の竹内良鎮大僧正が政弘に、一条兼良筆の河内本『源氏物語』54帖を与える。
閏8月9日、幕府が政弘に、禁裏の修理料300貫の進納を督促する。
[10月]、幕府に長刀を献上する。
11月15日、筑前博多の善導寺で諸人が止宿することを禁止する。
[冬]、兼載が政弘に、『兼載伝授連歌秘書』(『連歌延徳抄』)を贈る。
この年、朝鮮へ遣使として慶彭(永年)を送り、大蔵経を求める。
このころ、兼載が政弘亭で連歌を指導する。
このころ、政弘の依頼により兼載が『源氏物語』の青表紙本と河内本との相違を注する。
《皇紀2151年 延徳3年 後土御門天皇28年 西暦1491年》46
[7月]、飛鳥井雅康が、政弘の依頼により進めていた『拾遺和歌集』の書写と校合を終える。
9月1日、三条西実隆が、政弘の依頼により進めていた『新古今和歌集仮名序』などの書写を終える。
10月、政弘の所望により、三条西実隆が勧修寺政頼の書写した『続拾遺和歌集』を校合する。
11月13日、『大内家壁書』で、勘気を被って家人の籍から外された者は、殺害・凌辱に遇ったとしても、その相手の罪を論ずることはできないことを定める。
この年、将軍義材の六角高頼討伐を支援するため、義興を近江へ派遣する。
この年以前、次男である大護院尊光(のちの高弘)が周防国衙の目代に任じられる。このことは、この後に政弘が周防国衙領全体を横領するきっかけとなる。
《皇紀2152年 延徳4年 後土御門天皇29年 西暦1492年》47
3月4日、政弘の所望により、三条西実隆が滋野井教国の書写した『新勅撰和歌集』を校合する。
5月8日、近衛政家が、政弘の所望によって書写した『金葉和歌集』の一部に、奥書を添えて政弘に贈る。
6月、『大内家壁書』で、築山築地のに上って祇園会などを見物することを禁止する。
《皇紀2152年 明応元年 後土御門天皇29年 西暦1492年》47
12月22日、二階堂行二に書札礼(書状の形式に関する規定)について質問する。
《皇紀2153年 明応2年 後土御門天皇30年 西暦1493年》48
2月24日、二階堂行二が政弘に、前年12月の政弘からの書札礼についての質問に答える。
3月上旬、政弘の所望により、三条公敦が兼載筆写、三条西実隆奥書本の延慶両卿訴陳状の外題と奥書を書く。
この年、朝鮮へ遣使を送る。
この年の日明貿易は細川氏と対立し、参加できず。
《皇紀2154年 明応3年 後土御門天皇31年 西暦1494年》49
2月18日、周防の氷上山興隆寺で火事が起こる。
5月2日、興隆寺の巨鐘を鋳造する。
9月、興隆寺を再建する。
この年、朝鮮へ遣使を送る。
この年(翌年とも)、中風が再発し、義興に家督を譲る。
義興に家督を譲り隠居しけり。理由は中風の悪化。
《皇紀2155年 明応4年 後土御門天皇32年 西暦1495年》50
春、母が没する。
7月、病にかかる。
9月18日、病死する(享年50)。法名は法泉寺殿直翁真正大居士。墓所は法泉寺。
9月18日、没しけり。
《皇紀2168年 永正5年 後柏原天皇9年 西暦1508年》
10月14日、従三位を追贈される。
〜〜〜年表外の事績〜〜〜
政弘の家集に『拾塵和歌集』があり、これは自詠2万余首
の中から1500首を選ばせ、さらに自ら1100首に厳選したも
のである。
宗祇の『新撰菟玖波集』撰集を後援し、これには政弘の作
75句が収録されている。
