大内義尊

大内義尊(おおうちよしたか)

 

【天文14年〜天文20年】 室町時代後期

  祖父   小槻伊治  

      おさいの方

  祖父 

  祖母   東向殿

    

 

名字と諱
 大内義尊
諱以外
 新介
氏(本姓)
 多々良

 朝臣
位階
 従五位下
官職
 周防介
本拠
 山口

》の右の数字は数え年

《皇紀2205年 天文14年 後奈良天皇20年 西暦1545年》1
生まれけり。

 

大内義隆の長男として生まれる。
父義隆は大友晴英(のちの大内義長)との養子の契約はなかったこととして、義尊を嫡子とする。

 

《皇紀2209年 天文18年 後奈良天皇24年 西暦1549年》4
2月17日、従五位下周防介に叙任され、新介と称する。

 

《皇紀2211年 天文20年 後奈良天皇26年 西暦1551年》7
8月20日、陶隆房が父義隆に対して挙兵する。
8月下旬、法泉寺に逃れる。
8月29日、法泉寺で、宮野へ逃れることとなった母おさいの方や乳母と別れる。
8月29日、父義隆より先立って法泉寺を出て家来に背負われて長門へ逃れる。
9月1日、反乱軍が大寧寺を囲む。
9月1日、助命を約束されて陶氏の軍兵に生け捕られる。父義隆は大寧寺で自刃する。
9月2日、殺害される(享年7)。法名は幻(幼)性院真海珠珍童子(珠珍鳳毛童子とも)。墓所は大寧寺。

 

9月2日。殺害されけり。

 

 

陶隆房の反乱の計画では、当初は義隆を廃した後に義尊を擁立する予定であったが、義隆に謀反を察知されたために隆房は計画を変更し、義尊の擁立を中止して大友氏から晴英(のちの義長)を迎えることにしたとされ

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